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哲学者・芸術家たちからの激励(その2)

モヤモヤが哲学させる 第4回

みなさん、こんにちは。
第四回は、第三回に続いて哲学者・芸術家たちからの激励です。これまで、ベルクソンとサルトルからのエールをもらいましたね。

「問い」は「モヤモヤ」を言語化したものです。「モヤモヤ」は」なんだかよくわからないけど、なんか変だ」という感覚的なものですよね。ですが、学校や仕事場では、「わからない」人は評価が下がります。「わからない」ことがあってもわかったふりでごまかさなければなりません。

しかも「なんだか」「なんか」のように、言葉にできない感覚などに付き合っていたら、ますます評価は下がってしまうでしょう。だから、「わかる」だけで人物を格付けする「わかる教」の人たちは、「不安定」「不確実」「複雑」「不明瞭」を嫌います。

「わからない」に触れたら、自分の立ち位置や権威が脅かされてしまいますからね。でも、本来的な思考をする人たちは、「不安定」「不確実」「複雑」「不明瞭」にワクワクします。そして、いずれ「モヤモヤ」が言語化され、一つの問いに出会うのです。

さて、前回は、ベルクソンとサルトルが見抜いた「安定」と「自由」についての真理を紹介しました。「安定」は「不安定」に、「自由」は「複雑」に対応するテーマでしたね。今回は、「所有」と「意味」についてです。歴史に名だたる哲学者と芸術家は、どのような真理に至ったのでしょうか。
「所有」は「不確実」に、「意味」は「不明瞭」に応じるものです。

利害と合理性を手放せばワクワクできる

まずは「所有」からです。
三番目に登場するのは、ジョルジュ・バタイユです。

有名な哲学者ではありますが、その旺盛な好奇心は、哲学者に対する一般的なイメージからかけ離れたものでした。彼が挑んだテーマは「エロス」「蕩尽「悪」「供儀」「至高性」など。バタイユに傾倒した日本人と言えば三島由紀夫が挙げられます。三島由紀夫は自決前の対談で、現代ヨーロッパの思想家で一番親近感を持っているのがバタイユであると述べていました。

そんなバタイユが、「創造」を子供の遊び心や反抗心に結びつけています。『文学と悪』という書から、二つ引用しましょう。

自由とは子供の能力である。無償の戯れでしかない力である。行動という強制命令に巻き込まれている大人には、自由は単なる夢想か欲望か強迫観念にしかならないだろう。このような大人は、子供の自由を嘲笑する。しかし、このような条件の中でこそ、讃嘆と羨望の気持ちに制約されながらも、子供は反抗の気持ちを養い育てる

文学と悪

詩は建設的なものにはなり得ない。詩は破壊する。反抗することによって初めて真実のものとなる。ブレイクの作品は、その創造の動きにおいて至高のものである。自由な気まぐれが、利害の計算に応えることを拒否しているのである

文学と悪

あなたは、子供たちから、「大人とは?」と聞かれたらなんと答えますか?

「利害の計算に応えられ人」、なんて答えが、まさに現代の大人の定義に適当かもしれません。もちろん、大人たち「利」を求め「害」を避けますよね。こうなると、利害の解法をたくさん所有している人に高い点数がつくようになります。さらに、不確実な時代ならば、より「解法」が重宝されるでしょう。

あるいは、「感情的にならず合理的な考えをする人」と答えられるかもしれませんね。しかし、この「合理」なるものが「こうだからこう」という決めつけを前提にしていたらどうでしょう? これは問いよりも答えを優先する思考です。こうなると、たくさんの「答え」を所有している人が、周りから崇められます。こうして大人たちは、不確実への不安から、「答え」の所有に狂騒してしまうのです。

しかし、そんな利害や合理だけに縛られてしまったわたしたち大人も、かつては「子供」だったのです。その心は、枯れ果てることなく、いつでも出番を待っているでしょう。利害の計算、世間が押し付けてくる評価に抗ってみましょう。あなたの童心が、また蘇ってきたような、ワクワクするような気持ちになりませんか?

意味を求めないことで創造は生まれる

お次は、アンドレ・ブルトンです。20世紀を代表するフランスの芸術家がいます。「シュールな笑い」「シュールな映画」などで利用され始めた「シュール」。その語源となった「シュルレアリスム」運動の立役者です。そんなブルトンが、その名も『シュルレアリスム宣言』で、こんな憤りを露わにしています。二つ紹介しましょう。

有無を言わせぬ実際的必要性に身も心も捧げてしまって、そこから目を離すことができなくなってしまってから、生きるための根拠や自分を取り戻そうとしても、うまくいかないだろう。どんな身振りにも余裕がなくなり、思考にも度量がなくなってしまっているからだ。結果において安心を得られるようなことと関連づけることで、自分の出来事を判断してしまうだろう。それでは、人間の救いが見出される訳が無い。自由という言葉だけが私を奮い立たせる

シュルレアリスム宣言

現実主義的態度というのが知的な飛翔に敵対する。これは凡庸さと憎しみとうぬぼれの産物である。この態度は新聞雑誌の中で絶えず強化される。最小限の努力で最大の効能という大量生産の法則が、科学や芸術にまで押し付けられる

シュルレアリスム宣言

「実際的必要性」「結果における安心」「現実主義的態度」「最小限の努力で最大の効能」、まさにわたしたちに刷り込まれた時代の閉塞感でしょう。これらは、わたしたちの行動を、わたしたちが気づかないまま支配するものです。こうして、わたしたちはすでに意味があることしかできなくなってしまいます。

「それにどんな意味があるのか?」に答えられなければ、何事にもチャレンジできなくなってしまうのです。その結果、知らず知らず、わたしたちに生来、備わっている数々の力が、貧弱になっていきます。

ブルトンは、これを「凡庸さと憎しみとうぬぼれの産物」と吐き捨てています。わたしたち自身に潜んでいる「凡庸さと憎しみとうぬぼれ」に気づいて、そこから自らを解放させていきませんか?

モノが支配する現代に、わたしたちにはどのような思考が可能でしょうか? しばしば誤解されますが、思考とは机上の空論ではありません。思考は行為なのです。そして、問いとの出会いが、私たちの人生の豊かさの証拠なのです。その手がかりは、わたしたちが感じている「モヤモヤ」にあります。

「わかる教」におさらばしましょう。このモヤモヤからしか、発明や創造は生まれません。この感度は誰にでも備わっています。なぜなら、これは身体的な肌感覚なのですから。

(大竹稽)

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