たった一日で悟りを開く方法 <6章>
~悟後の修行と坐禅瞑想
最終章では、今一度、瞑想について考えてみたいと思います。皆さんには第3章で、悟りを開くための瞑想をしていただきましたが、ここでは悟後の修行における瞑想の有用性がテーマです。
仏教がインド全土に広まった理由
そもそものブッダの教えに近いとされる南方仏教や、大乗仏教でも曹洞宗、臨済宗といった禅宗では、前者ではヴィパッサナー瞑想、後者では坐禅と手法は変わるものの、自己を観察したり、精神を統一したりといった修行をしっかり行うことこそが、仏道を実践する基本とされています。
「はじめに」でも書いたように、そもそもブッダの時代の仏教では、出家してひたすら修行に励み、苦しみの源である煩悩を消し去ることでしか、人は真の安楽に達することができない、と説かれていました。出家者は財産や家族を捨て、朝から晩まで瞑想を中心とした修行生活を送ります。労働は一切禁じられ、畑を耕して農作物をつくることも許されないため、生活の糧は社会から恵んでもらうしかありません。この頃から出家をしない、いわゆる在家の信者はいましたが、得られるのは現世での利益だけで、輪廻を止めることはできないとされ、たとえ熱心であったとしても、出家した修行者とはレベルが違うものとみなされていました。
しかし、ブッダが入滅した一〇〇~二〇〇年後の紀元前三世紀中頃、インドを統一したアショーカ王が「破僧(はそう)の定義変更」を行います。破僧とは、仏教の組織を分裂される行為を意味し、この基準が大きく緩和されたため、大筋で方向性が合ってさえいれば、仏教の教えをアレンジしたり、解釈を変えたりすることが可能になりました(一)。アレンジが許されれば教義のブレは大きくなりますが、その代わり、様々な環境で暮らす人々が、それぞれの立場によって自分に合ったものを選べるようになります。
この出来事をきっかけにして、それまではバラモン教が定着していたインド全体に、仏教というマイナーな新興宗教が一気に広まったとされています。ここが仏教史上、最大の分岐点であったといっていいでしょう。教義を変えていいのなら、もはやそれは仏教ではないという意見もあり、実は私もそう感じていた時期があるのですが、もし、この解釈変更がなければ、仏教がインド全土に広がった可能性は低く、ましてや大乗仏教が生まれ、中国経由で日本にまで伝わることもなかったでしょう。
インドにはジャイナ教という宗教があり、仏教と同時期に開創され、多くの共通点があります。しかし、「大乗」を生み出すことはなく、結果として、滅亡こそしませんでしたが、インド文化圏の枠を超えて広まることはありませんでした(二)。
それに、いかに原理原則が大切とはいっても、仏教のそもそもの教えに賛同できる人が、今の時代にどれだけいるでしょうか。人は輪廻を繰り返し、天にいったり、畜生になったり、地獄に落ちたりする中で、輪廻を止める方法が、悟りを開いて涅槃に行くことだとの教えは、当時のインドでは違和感は少なかったのかもしれませんが、日本で生きるほとんどの人にとって、すんなりとは受け入れがたい内容でしょう。
また、一切労働は許されず、托鉢で最低限の糧を得ることで生活しなければならない、そして性行為はもちろん、異性と冗談を言い合ったり、マッサージを受けたりすることすら禁止という戒律も、現代で支持を得るのは難しいように思えます。
批判を恐れずにあえて言うならば、二五〇〇年前のインド人が瞑想の上に説いた教えと、私たち現代人にとって有益な教えが、細部にいたるまで完全に一致などするわけがないのです。そもそもが宗教というより、哲学の側面が強い仏教ですから、その時代、その土地柄に合った形で、多少の変更が加えられたとしても、それを致命的な問題と捉える必要はないように思えます。もちろん、どのように変えてもいいわけではなく、変更は仏道の精神に則った妥当なものである必要がありますが、いい加減な教義は時代の淘汰により廃れていくであろうことを考えれば、長い年月にわたり、多くの人に支持されている宗派には、それなりの存在意義があると言っていいのではないでしょうか。
大乗仏教の誕生と悟りの変遷
「仏教の中にも、いろいろな解釈があっていい」という流れが加速することによって、西洋でイエス・キリストが誕生した時期にあたる紀元前後に、インドで大乗仏教が生まれます。大乗仏教は、「出家者など限られた人だけではなく、すべての人を救ってくれる大きな乗り物」を意味し、在家のままでも悟りに近づくことができると説きました。
大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじゅうしつうぶっしょう)」、すなわち、すべての生物は仏性(仏としての本性)を自分の中にもっている、という思想が生まれます。初期の仏教では、ブッダは特別な資質をもった天才だけが到達可能な境地であり、数十億年に一人しか現れないとされていましたから、それと比べるとずいぶんブッダの解釈が変わり、教義上の地位が下がったようです。
そして、この「自分の中に仏性がある」という解釈が、ヒンドゥー教での究極の悟りである「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、すなわち、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の主体であるアートマン(我)とが同一であるという考えと類似していたため、インドでの仏教はヒンドゥー教に吸収される方向で廃れていきましたが、逆に中国では広く受け入れられ、それが日本にも伝わって今に至ります。
ちなみに、仏性を宿す生物の範囲は、もともとのインド仏教では人間と動物に限られていました。そもそも輪廻も、動物に生まれ変わることはあっても、植物に生まれ変わることはなかったので、当時のインドの感覚では当然の道理だったと思われます。それが中国に入ると、「草木でも成仏できる」と考えられるようになり、さらに日本では平安時代になって、山や川などの無機物でさえも成仏できるという、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」の思想が一般的になりました(この言葉自体は、梅原猛による造語という説もあります)。日本人の「森羅万象すべてのものに魂があり、神を祝している」というアニミズム的宗教観によって、大乗仏教の教えがさらに拡大されたわけです。
悟りに関しての変遷はというと、はなはだ大雑把ではありますが、大乗仏教の般若経や法華経では、「日常の中で善行を積み重ねていけば、悟りに近づくことができる」、そして、「経典を読み、書き写すことこそがブッダになるための力になる」となり、浄土宗では、「南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば極楽浄土に行ける」と、これまた、大きくハードルが下がりました。しかし同じ大乗仏教で「衆生本来仏」であっても、禅宗では坐禅修行を重んじることは、再三書いてきたとおりです。
そういった推移を踏まえた上で、本章のテーマである瞑想の立ち位置を解釈すると、
「初期の仏教では極めて重要視されており、テーラワーダ仏教など、南方へ伝わった仏教ではそれが引き継がれているが、北方に向かった大乗仏教では一部の宗派を除き、もはやさほど重視されていない」
ということになります。
とりあえずは動中の工夫で
個人的経験でいえば、坐禅瞑想の効果はもちろんあります。しかし私の才能が乏しいのか、それによってメキメキと悟りを深めているという実感はなく、動中の工夫、すなわち日常生活において、しっかり気づきを入れていくほうが、効果を実感しやすいように思えます。
そして、ここでも重視したいのは、現実的見地に立った発想です。大乗仏教が広まった理由は、そもそもの仏教の教えが厳格すぎたため、そのときの歴史的、あるいは地理的環境においては、悟りへのハードルを下げざるをえなかったという事情があったのでしょう。現在、日本で禅の修行者が減少傾向にあること、また私の経験からいって、多くの人は禅寺や道場にわざわざ足を運ぶには忙しすぎるのに加え、いわゆる宗教活動に抵抗を覚える傾向があることを考えれば、原理主義的に悟りのハードルを高く維持するやり方では、仏教の衰退を後押しする結果になりかねません。
それらの諸事情を鑑み、悟り隊での結論は、多くの現代人に受け入れてもらえるよう、「とりあえずは『動中の工夫』で十分だから、心が折れかねないような頑張り方はしないでほしい」、というものになります。
本書で紹介した、一切皆苦および四聖諦を理解し、八正道を実践する。特に、日常での諸動作に集中しながら、三毒が生まれたらできるだけ素早く気づき、無我の理解を利用して執着しないよう努める。さらに四正体を体感した瞑想経験を思い起こすことによって、頭の中で絶え間なくおしゃべりをしていたり、煩悩に駆られたりしている偽りの自我を、一歩引いたところから冷静に観察する本当の自分をみつけ、それになりきる時間をジリジリと増やしていく。これだけでも簡単ではありませんが、修行のために余計な時間をとられない点や、宗教団体に関わらないですむ簡便さにおいて、忙しい現代人にも受け入れられやすいはずです。
最初に書いたように、私自身は四五分間の坐禅二セットを毎日欠かさず行っていますが、これは私の(現時点での)やる気や、アーリーリタイアして仕事をしないでいいという環境、さらに、子供たちも以前ほど手がかからない年齢に成長しているといった諸状況によるものであって、たとえば開業医として忙しく働いていた一〇~二〇年前に、毎日必ず四五分間は坐禅を組むことと指導されれば、たちまち音を上げていたことでしょう。
とはいえ――日々、坐禅瞑想を行い、その果実を少しは味わっている身としては、瞑想修行のメリットについて、まったく言及しないわけにもいきません。押しつけがましく聞こえないよう祈りつつ、最後に少しだけつけ加えさせてください。
瞑想の多大なるメリット
もし皆さんにやる気があれば、一日一〇分程度の瞑想を習慣づけることは、とても有意義とされています。第3章でご紹介した数息観だけでもいいですし、ビル・ゲイツが絶賛したことで有名になった、「頭を『からっぽ』にするレッスン」(*三)で紹介されている、一〇分間瞑想もお勧めです。
これは、まず体の感覚を注視し、その後に数息観をする方法で、「前半はテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想、後半は禅の数息観」と、両者のいいとこ取りをしているようにもみえます。著者のアンディ・ブディコムは大学在学中に僧を志し、世界各地の寺院で修行を積んだのち、チベットの僧院で正式な仏僧となったという経歴の持ち主で、イギリスに帰国後は瞑想普及のための団体、ヘッドスペースを創設しました。現在、動画配信サービス・ネットフリックスで提供されているヘッドスペースの番組では、ブディコム本人の誘導で瞑想を行うことができます。
仏教や悟りは一旦脇におくとして、毎日、短時間でも瞑想をすることは、数々のメリットをもたらすとされています。一般的な効能を並べると、幸福感に関係する脳部位を活性化させる、ネガティブな感情をやわらげる、ストレスの悪影響を抑える、不安や抑うつを減少させる、痛みを強く感じにくくする、生活の質が改善する、肌がきれいになる、自己管理能力が高まる、不眠に効く、認知能力や注意力が改善し、締め切りが守れるようになる、などなど。
それに加えて、今回得た悟りが深まり、仏道修行の向上に結びつくのならば、むしろ一日一〇分をケチる理由を探す方が難しいかもしれません。
悟って初めて、瞑想はうまくいく
また、この本を手に取るくらいですから、読者の中には瞑想に以前から興味があり、
「いろいろ試してみたけど、さっぱりうまくいかなかった」
との感想をもっている人もいるかもしれません。しかし、それもそのはず。実は瞑想は、悟って初めて、うまくいくものらしいのです。
対談(四)の中で、禅僧・藤田一照は、 「無我にシフトして、はじめて仏法に即した修行ができるということだと思います。仏教の修行というのは、我の修行ではなく、無我の修行でなければならないのです」 と述べており、それに対し著述家・魚川祐司は、「浅深の差はあれ一定程度の『悟り』を得ることで、はじめて修行がまっとうになるという側面は、実際的にもあるだろうと思いますね」 と同意しています。
本来、悟るために必要な瞑想なのに、悟ってからじゃないとうまくいかないというのですから、なんとも不条理な話なのですが、これは私の経験とも一致します。自我があるように感じ、「自分」が瞑想をしている間は、なかなか禅定を得られないのですが、なにかの拍子で「自我」が落ちて、数息観なら数を数える主体、ヴィパッサナー瞑想なら観察する主体が「自分ではない存在」に変わると、そこから禅定が深まるようなのです。
ならば、その「自分ではない存在」とはいったい何なのか、という話になりますが、これはかなりの難問です。臨済宗の公案でいえば「本来の面目」が該当するのでしょうし、禅僧・山下良道は著書(五)の中で、「青空」、「リリーフ・ピッチャー」、「今ここにある私」などといった表現で、瞑想中にあるべき主体を自我と識別する試みを行っています。科学的にいえば、脳のゆらぎによる自動操縦から離れ、メタ認知が継続する意識、と表現してもいいかもしれません。しかし、これはいくら言葉を尽くしても十分に説明することは困難であり、最終的には瞑想体験を通じて、感覚的に理解してもらうしかなさそうです。
なんにせよ、瞑想の精度を上げるには悟りを開き、無我を体感することが重要であるならば、悟り隊方式で、「簡易的でいいから、とりあえず悟っておく」という手法は、道理にかなっていることなります。特に、今までうまく瞑想ができなかったという方は、無我の境地をしっかり活用し、ぜひ再挑戦してみてください。すぐにうまくいくとまでは保証できませんが、何度か取り組むうちに、以前より深く禅定に入れるかもしれません。
しっかりと瞑想修行をしたい人のために
本書の趣旨からは逸脱しますが、もし一日一〇分といわず、もっとしっかり瞑想修行に励みたいようなら、私からいくつかの注意点を述べておきます。まず、長く座れれば、やはりそれに越したことはないようです。
瞑想愛好家で、たびたび瞑想の合宿にも出かけるという科学ジャーナリスト、ロバート・ライトは著書(六)の中で、 「私自身の経験では、一日三〇分と一日五〇分のちがいは大きい。それに私が対談した人たちの話では、一日三〇分と一日九〇分のちがいは巨大だ」 と述べています。 坐禅瞑想の修行をしたいようであれば、教室なり、お寺なり、道場なりといった、指導者がいる施設の門を叩くのが無難でしょう。瞑想の指南書は山ほどありますが、本を頼りにした独学で本格的な瞑想を学ぶのは、なかなか大変です。途中で挫折したり、結果として遠回りになったりすることがほとんどでしょう。とはいっても、怪しい教団や施設も多いのもまた事実なので、選ぶ際は周囲の助言も得ながら、冷静に判断してください。
故スティーブ・ジョブズはこよなく禅を愛しましたし、ビル・ゲイツも瞑想愛好家として知られています。さらに、「サピエンス全史」で一躍有名になったイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは、毎日二時間瞑想し、一年のうち一~二カ月は合宿に参加して過ごすそうです。ハラリは著書(七)の中で、瞑想についてこう述べています。
私は自分の感覚を観察する一〇日間のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを、自分自身と人間一般について学んだように思う。そして、そうするためには、どんな物語も学説も神話も受け容れる必要はなかった。あるがままの現実を観察するだけでよかった。私が気づいたうちで最も重要なのは、自分の苦しみの最も深い源泉は自分自身の心のパターンにあるということだった。何かを望み、それが実現しなかったとき、私の心は苦しみを生み出すことで反応する。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身の心によって生み出された精神的な反応だ。これを学ぶことが、さらなる苦しみを生み出すのをやめるための最初のステップとなる。
瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。
「苦しみは自分の心によって生み出される」との言葉は、まさに四聖諦。海外の知識人たちが異口同音に仏教的瞑想を評価・実践する中、元来は仏教国であった日本が周回遅れになっている現状が、私にはもどかしくてなりません。
私たちも、そろそろ次なる一歩を踏み出すべきではないでしょうか。
大変に名残惜しいのですが、本書もここで終了です。
仏教の教えに前向きに取り組むことにより、煩悩に突き動かされることなく、常に生成進行し続けている世界とひとつになった、本当の自分でいられる人が増えますように。
自利だけでなく利他の精神をもち、お互いに対する敬意を忘れないことにより、世界がよりよい場所、それこそ極楽浄土になりますように。
大乗仏教という乗り物をも越え、ブッダの教えが全宇宙に浸透していきますように。
そんな大胆な願いとともに、筆をおかせていただきます。
おつき合いいただき、大変ありがとうございました。合掌。
参考文献
一 佐々木閑(2019)『大乗仏教―ブッダの教えはどこへ向かうのか』32‐9頁 NHK出版新書
二 魚川祐司(2015)『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か』202頁 新潮社
三 アンディ・ブディコム A(2020 原書は2015)『頭を「からっぽ」にするレッスン―10分間瞑想でマインドフルに生きる』115‐129頁 辰巳出版
四 藤田一照・魚川祐司(2018)『感じて、ゆるす仏教』163‐4頁 角川書店
五 山下良道(2018)『光の中のマインドフルネス―悲しみの存在しない場所へ』272頁 サンガ
六 ロバート・ライト(2018 原書は2017))『なぜ今、仏教なのか―瞑想、マインドフルネス、悟りの科学』307頁 早川書房
七 ユヴァル・ノア・ハラリ(2021 原書は2018)『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』402‐3頁 河出文庫
───悟り隊・隊長 内山直
※原文はタテ書き
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