一日で悟りを開く方法

たった一日で悟りを開く方法 <5章>

~不満足な人生からの脱却

*インデックス ← 3章 ただ一度の瞑想で悟りを開く

第4章では集中、気づき、無執着により、煩悩を無力化する方法をご紹介しました。本章ではさらに仏教の中核をなす教えを学ぶことによって、思考や意思決定の上流にある脳のゆらぎや、主導権を握るモジュールのパターンをよりよいものに上書きしながら、人生の満足度を高めていく作業について考えます。

業(ごう)――心の習慣があなたをつくる

思考や行動が、そのときの脳のゆらぎに感覚刺激が合わさることによって、半ば自動的に決定されるのであれば、常日頃から脳がどのように活動しているかが、私たちの人生を決めてしまうことになります。あなたの周りにも、怒りやすい人、嫉妬深い人、プライドが高い人、ぼーっとしている人と、いろいろなタイプの人がいるはずで、そういった傾向は各自の脳のゆらぎが、特定の思考・行動パターンに偏っているからに他なりません。もちろん、もって生まれた遺伝的なものもあるでしょうが、それまでの学習や記憶の積み重ねが、大きく影響を及ぼしていると考えられます。
認知科学者、ニック・チェイターは著書(*一)の中でこう語っています。

思考の流れは人の一生を通じて、いわば心の習慣、心のレパートリーというべき複雑なパターンを形作り、またそれによって形作られます。過去の思考のパターンと、それが記憶に残した痕跡こそが、言動を形作り、一人ひとりを唯一無二の存在にするのです。
私たちの心は、過去の思考サイクルの記録にすぎません。

過去の経験や決断の蓄積が、未来における脳のゆらぎに影響を与えるのだとしたら――そう、まさに仏教における「業(ごう)(カルマ)」ではありませんか。
仏教では業を「自分の思考や行い、そしてそれがもたらす残存効果」と定義していますから、私たちの考えや行いは、すべて「業」ということになります。何かが起こるのは、キリスト教では神の思し召しによってですが、仏教では業、すなわち、その人の過去の集大成による、と考えるわけです。ちなみに業というと、何かおどろおどろしい、邪(よこしま)な印象があるかもしれませんが、悪いものだけを意味するのではなく、善い行動の結果として生じるものもあって、「善業」と呼ばれます。

第2章で、自由意志の有無に関し、「『脳のゆらぎ』は自分の脳内で生じているのだから、自分自身のものである事実に変わりはないと強弁することもできるが、私たちは自分自身の脳のゆらぎに意図的にアクセスすることはできないし、意識してコントロールすることもできない」と述べました。脳のゆらぎを自分自身としてみなす人生は、今まで自分が積んできた業によって、すでに決定された通りに歩んでいく日々、と言い換えることもできますし、その歩みによって、また新しい業が形成されるので、未来も自動設定されていくことになります。もし人生の決定権を自分の手に取り戻したいのであれば、思考や行動に逐一気づきを入れ、自動操縦から手動に切り替えることによって、業を望ましい方向に修正していく必要がありそうです。

善良な行いを繰り返すうちに、脳のゆらぎが規範に沿ったパターンをとりやすくなれば、私たちの行いはさらに善いものになっていきます。これは第Ⅱ章で述べた心のモジュールのうち、道徳的なモジュールが力を増し、主導権を取りやすくなったと言い換えてもいいでしょう。その結果、成功や健康が得られるのだと考えれば、仏教における業の理念は、そのまま現代心理学につながることになります。
「自分の人生を好転させるためにいい行いをするなんて、偽善っぽくて嫌だな」
そう感じている人もいるかもしれませんが、偽善でいいのです。というよりむしろ、最初は偽善しか方法がありません。偽善によって、脳のゆらぎやモジュールを道徳的な方向にもっていけば、偽りの要素が少ない善が徐々に、自然な形で現われるようになるはずですから、それを将来の楽しみにして、とりあえずはどんどん偽善に励んでください。

ネガティブな感情の癖を正そう!

これを先ほどから話に出ている、ネガティブな感情に当てはめてみましょう。三毒を分解し、欲、怒り、妄想、慢、後悔、嫉妬と六つにわけて説明しましたが、このうち、特に自分に多いと感じるものはありませんか。「友人の環境が妬ましい(嫉妬)」とか、「討論では勝たないと気がすまない(慢)」という具合に、一定の傾向があるようでしたら、それがあなたの心のクセであり、脳はその方向へゆらぎやすくなっていますから、それぞれの煩悩を少しでもマシなものにすり替えることができれば、さらなる悪業を積まなくてすみそうです。そのためのテクニックを、自著「4週間で幸せになる方法」(*二)から要約の上、紹介します。

まずは、怒り。一番すり替えやすいポジティブな感情は、同情だ。
馬鹿げたことをする相手を腹立たしく思うのではなく、「愚かで、気の毒な人だ」と柔らかく憐れんであげる。これを仏教では悲(ひ)心(しん)と呼ぶ。そうすれば、怒りの世界に引きずり込まれにくくなるというわけだ。
次に、後悔。これは反省に置き換えることができる。悔やむのではなく、「失敗しちゃったな。次は気をつけよう」と小さく呟いて終了。長々と反省なんかしても、性格が暗くなるばかりで、ちっとも幸福にはつながらない。真摯な気持ちであれば、一瞬で十分としよう。
嫉妬。これについては、「自分が持っているかけがえのないもの」に目を向け、さらに「自分の人生を、嫉妬の対象である相手と丸ごと取り換えたいか?」と自問してみる。そうすれば、自分の中にあって、決して失いたくないものだけでなく、相手の人生からもらってしまいたくないものも、実はたくさんあることに気づくはずだ。
さらに、慢。これは、承認欲求が満たされない時、と言ってもいい。すかさず、「その相手に認めてもらうことは、自分にとってどのくらい重要だろうか」と自問してみよう。ほとんどの場合、「自分で納得しているのだから、この人の承認を得る必要はない」という結論に落ち着くはずだ。誰かに認められたいのなら、その人の価値観に沿った行動を続けるしかないが、それは簡単なことではないし、もしできたとしても、それでは自分が望む人生ではなく、他者を満足させるための人生を歩むことになってしまい、決して本意ではないはずだ。

このような置き換えにより、ゆらぎの傾向をその煩悩から引き戻せば、悪業から離れ、善業を積んでいることになります。実に地道な工夫ではありますが、私たちがとれる打開策は、一歩一歩、思考や行動の履歴をいい方向に上書きしていくやり方しかないのです。
もっとも古い経典の一つ、法句経には次のようなブッダの言葉が記されています(*三)。

君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結果のつぎはぎとして、今、ここに立っている。
すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。
君がイヤなことを思うなら、少しだけイヤな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶんイヤな君に変化する。
君が優しいことを思うなら、少しだけポジティブな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶん温かい君に変化する。
こうして人間は、心で思ったとおりのものへと少しずつ変化してゆく。
すべては心が思うことから生まれ、すべては心が思うことによって創られる。
そう、影が君の歩く後ろから必ずついてくるかのごとく。

さきほど紹介したチェイター氏の言説とそっくりですね。まるでブッダはすべてを見通していたかのようで、時に背筋が寒くなります。私たちの思考や行動が脳のゆらぎのパターンを変え、よりよい未来へと導いてくれるのだとしたら、やはり私たちは普段から、ある程度道徳的な行いを心掛ける必要がありそうです。

悟りを開いた今、心に芽生える悪い誘惑は単なる思考の癖にすぎず、元来備わった「本性」とは違うのだと、あなたは知っています。自我は幻想であり、確固たる存在ではありません。ならば、脳のゆらぎをよりよいパターンに置き換え、正しく、幸せで、快活な人間になってしまえば、資産額や社会的地位などは何も変わらなくても、とたんに人生の勝ち組です。なんとブッダはそのための処方箋も用意していて、理想の境地に達するための八つの道、「八正道」と呼ばれています。

八正道は幸せの道

読者の中には、
「単に悟りに興味があってこの本を手に取っただけで、正しさといった道徳的な話には興味がないんだけどな」
と反感を覚える人もいるかもしれません。しかし、せっかく悟りを開いて、自我の頑固な束縛から自由になっても、そこに正しい行いを添えないことには、悟りの果実をえることはできません。

極端な例を挙げると、
「無我はわかった。でも、自分がないなら、好き勝手しても私のせいじゃないよね」
と都合よく解釈し、非道徳的な行いを繰り返すならば、恐らくは近い将来、手痛いしっぺ返しをくらうであろうと、容易に想像がつくはずです。そしてなんと、「心に自由意志はない」という考え方を教わると、カンニングをする確率が高まるという、身も蓋もない報告もあります(*四)。道徳に無関心のまま、無我の境地単体でやっていく道は危険なのです。

八正道とは涅槃(ねはん)に導く八つの実践徳目からなる聖なる生き方のこと。「正しい」と訳すと堅苦しくなりますが、元の言葉の意味は「真理にかなった」、あるいは、「調和のとれた」といったニュアンスで、正見(正しい見解)、正思惟(正しい考え方)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行動)、正命(正しい仕事)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づき)、正定(正しい精神統一) の八つから成ります。

  1. 正見。正しく見るとは、客観的にありのままに事実を見ること。特に、自分を観察することが重要です。自我が勝手にストーリーをでっち上げることを許さず、欲が出たら「欲」、怒りが出たら「怒り」と、ありのままに観察するようにしましょう。
  2. 正思(し)惟(い)。正しい考え方を意味します。瞑想の体験で実感したとおり、私たちは常に何か考えていて、その内容も建設的に課題に取り組んでいるわけではなく、ほとんどは何の意義もない妄想にすぎません。
    まずは、先ほど挙げた「欲」、「怒り」、「迷い」の三毒に惑わされないよう意識しながら、できるだけ客観的に自分の思考内容を観察しましょう。自分の思考は、最終的には自分の個性であり、人格なのだと理解した上で、非道徳的な考えを捨てるよう努めます。
    「考えるだけなら、他人にばれないからいいだろう」なんて思っていると、仏教的には「悪業を積む」、科学的に言い換えれば、「品性のよくないモジュールが支配的になる」ことにより、芳しくない未来を引き寄せかねません。
  3. 正語、は正しくしゃべること。嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話を避けましょう、と並べると、最初の三つはともかくとして、最後の「無駄話」はハードルが高すぎるように聞こえるかもしれません。
    しかし、無駄話をしている人をよく観察してみると、意味のないことを、ろくに考えもせずにまき散らしているだけの場合が多いことに気づくはずです。これは、「自分の話をもっと聞いて!」という欲の煩悩に駆り立てられながら、口を動かし続けているにすぎません。反対に、たとえば一年間、きれいな言葉だけをしゃべると覚悟を決めた上で、しっかり心をコントロールして無駄話を避けるようにすれば、一年後には周りの人との関係も改善し、自分自身もずいぶん立派になっている気がしませんか。これもまた、善業です。
    ちなみに、幸福度が高いことで有名なフィンランドは、同時に、あまり雑談をしない国民性でも知られています。因果関係は不明ですが、ある程度のメタ認知ができれば、生産性の低い雑談は減って当然かもしれません。
  4. 正行は、正しい行動。殺生、盗み、邪な行為をやめること。これも二つめまでは普通に理解できますが、三つめの「邪な行為」、すなわち「夫婦以外の者と肉体関係を持つこと、もしくはそれに至るおそれがあるような行為」については、人によっては厳しく感じるかもしれません。
    まあ、現代に即した仏教の布教を目指す悟り隊としては、元の教義を拡大解釈し、「不倫など、他人に迷惑をかけるような行為」さえ避ければよしとする、というあたりが落としどころでしょうか。ブッダの頃とは社会通念も違いますしね。えっ、それも厳しい? 第Ⅱ章で記した大学生を対象とした実験をみてもわかるように、過度な性欲は煩悩に屈し、錯覚である自我を暴走させているにすぎないので、できれば、ほどほどにしてほしいのですが。
    まあ、とりあえずは「努力目標」ということで……。
  5. 正命は、人の迷惑になる仕事をせず、皆の役に立つ仕事をすること。仏道においては、休み暇もないくらいバリバリ働くことは、逆に推奨されておらず、生活を維持するために必要最低限にしておいた方がいいとされています。必要なことをして、自分に必要なものをもらうという心持ちで働けば(狩猟採集時代のように!)、欲望は肥大化せず、あまりストレスもたまらないことでしょうが、これもまた現代社会では時として難しい。とりあえず、仕事だけが生きがいになり、家族や友人をないがしろにするような生活は避けることを心掛けてみてはいかがでしょうか。
    しかし、それであれば医師の仕事からアーリーリタイアして、数年に一冊本を出すくらいしか働かない私は、まさに仏道にかなった生活をしていると胸を張ってよさそうですね。はなはだ手前味噌ではありますが。
  6. 正精進は、正しい努力です。したことがないような悪い行動は、これからもしない。今、自分にある悪いところはなくすようにする。今までにしたことがないような善い行動を始める。今、自分にある善い行動は増やすようにする、という四つの努力目標が挙げられています。
    何でもかんでも頑張ればいいのではなく、道徳的に優れた人間になるために努力するという、方向性こそが仏道においては大切なようです。
  7. 正念は、元のパーリ語ではサンマー・サティ。一般的には正念と訳されますが、意味としては正しいサティ、すなわち「正しい気づき」ということになります。
    散々述べてきた通り、三毒を始めとするネガティブな感情が生じたら、できるだけ素早く気づき、煩悩の暴走を止める。それを繰り返していくことによって、少しずつ習慣化され、悪業がやみ、脳のゆらぎや支配的モジュールが「より善きもの」に変わっていく好循環を目指します。
  8. 最後は正定。正しい精神統一となり、これは集中力と同義ですから、「七」の正念同様、ほぼ修行の世界といっていいでしょう。僕自身は第Ⅲ章でご紹介した数息観、四五分間を一日二セット行って、集中力(禅では道力ともいいます)を高める訓練をしています。
    しかし、皆さんは何かと忙しいでしょうから、無理にお勧めはしません。瞑想については本書の最後でもう一度考えることにして、とりあえずは日常の一コマ一コマに集中する、「動中の工夫」に励んでいただければと思います。

以上、八正道の感想はいかがでしたか。いかにもありがちな道徳のお題目ではなく、よく練られた教えであること、そして、第Ⅳ章で紹介した修行の内容と、多くが重複していることに気づいていただけたと思います。皆さんはすでに、八正道の実践を始めているのです。ブッダは、
「この八つの道こそが、幸福の道、苦しみをなくす道、やすらぎの道である」
と説いています。仏道の修行というと、坐禅瞑想のイメージが強いとは思いますが、決してそれだけではないのだとご理解ください。

八正道は本来は悟りを開くための修行ですが、すでに見性済みの皆さんの場合は、悟後の修行の一環として活用していただければと思います。

アファメーションでちょっと近道

とはいえ八正道に関しては、今までの修行内容と比べ、「八つもあって長いし、達成に時間がかかりそうで気が乗らない」と感じる人もいることでしょう。そこで、ここでは脳科学を利用して、八正道を簡略化する方法も紹介しておきます。

私たちの思考は、過去の思考や経験によって影響を受けていますが、現実世界における実体験だけがすべてではなく、想像による疑似経験だけでも、ちゃんと脳に刷り込まれるのだそうです。よって想像力を働かせ、特定のイメージを思い描く作業を繰り返すと、やがて思考にも影響が及んできます。こうやって善いことを想像し、自分にとって理想的な思考回路が働くように変えていくことを、アファメーションといいます(五)。

やり方はいたってシンプル。邪な考えを避け、常に美しい言葉を使い、優雅に行動する自分の姿を思い浮かべてみてください。素敵な仲間に恵まれ、感謝に溢れた日々を過ごしている理想像を、大真面目に想像してみるのです。善い行いが思考回路を健全化していくのと同様、想像するだけでも、脳は新しい情報によって上書きされ、いいゆらぎが生まれたり、理性的なモジュールの支配力が強まったりします。

脳の奇妙な建てつけによって、面倒な目に合わされることが多い私たちですが、ここではその習性を逆に利用することができそうです。 ちなみにアファメーションには他にも、仕事や学業の能力が向上する、慢性的なストレスが緩和される、健康が増進されるといった効果が期待できます。とりあえず、お風呂でくつろいでいるときや、ベッドで眠りに落ちるまでの間に試してみるといいかもしれません。 ちなみに仏教にも似たような文言があり、四聖謹(ししょうごん)と呼ばれます(六)。悪業を積んでも、心の中で「次は絶対繰り返さないようにしよう」と繰り返し念じて言い聞かせると、心は少しずつ善い方向へ成長していくとの教えで、さすがはブッダ、用意周到ですね。

ただし、アファメーションや四聖謹が思考の好循環を生み出すためには、多少時間がかかるとされています。八正道は八正道で少しずつであっても実践し、近い将来、アファメーションなどとの相乗効果が現れるのを期待するのが得策でしょう。

あらゆるものは苦って、本当?

ブッダが初めて人に向かって法を説いたときの経とされる転(てん)法輪(ぽうりん)経(きょう)には、「中道とは八正道である」と記されていて、そのすぐ次に「苦」が登場します。仏教の骨格をなす教えのひとつ、「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)」ですね。苦について正しく理解しておくことは、悟後の修行に大変役に立ちますので、これに関しては仏道修行者としてだけでなく、医師の立場からもしっかり解説したいと思います。
そもそも、この「あらゆるものは苦である」というのは、すんなりとは理解しにくい教えです。そこそこ豊かな国に生まれて、食べるのに困った経験もないのに、なぜ、すべてが苦なの? と首を傾げる人も多いことでしょう。

まず「苦」の意味ですが、元のパーリ語では「ドゥッカ」で、「空しい、不安定、苦しい」といった状態を指します。苦しみよりも、もっと広い意味を含んでいますので、ここでは一旦、「不満足」に置き換えて考えてみましょう。
物質的な存在は、すべてが常に変化していて、止まることはありません。私たち自身だって、体を構成する物質がどんどん入れ替わっていることは、第2章の後半で書いた通りです。変わり続ける以上、最終的な満足に至り、その状態が続くことはありえませんから、生命はただの不満の流れであり、空しい存在にすぎないことになります。

たとえ最高の状態を手に入れ、奇跡的にそれがしばらくの間続いたとしても、人は必ず飽きますから、不満足が生じます。今までより大きなテレビを買って、しばらくは画面の迫力を興奮気味に楽しんだものの、あっという間に慣れ、喜びも尻つぼみになっていった、というような経験はありませんか。もちろん、新しいスマホや、モデルチェンジした新車に置き換えてもかまいません。

そもそも生命それ自体が不安定ですから、私たちはどれだけ成功したところで、結局は歳をとり、病気になり、そして死にます。人生はしょせん負け戦であり、満ち足りた状態が持続する生活など、現実から目を背けることによって生まれる幻想にすぎないのです。

どうでしょう? 一切皆苦の印象が、ずいぶんと変わってはきませんか。ちなみに、すべてがうつり変わることを「諸行無常」といい、これも仏教用語ですね。
「なんだか無理やり言いくるめられた気がするな。確かに『苦』の要素が大きいのはわかったけど、逆の『楽』だってたくさんあるよ。楽あれば苦あり、って言うしね」
との意見を頂くこともあります。そのようなときに私から、「どういう時に楽だと感じますか」と尋ねると、典型的な返答は、「ひと仕事終わってほっとしたとき」、「温かい風呂に浸かっているとき」、あるいは「おいしいご飯を食べるとき」といったものになります。

ここで、考えてみてください。仕事後の安堵は、仕事の緊張感や疲労といった「苦」があったからこそ得られたのではありませんか。遊んでいるかのような仕事の後なら、「終わって楽!」とは感じなかったはずです。同様に、風呂に浸かったときのリラックスは、その前に体の冷えや、こわばりがあるからだし、ご飯を食べるのが楽なのは、空腹という苦があるから。お腹いっぱいのときにご飯を食べろと言われても、楽とは感じませんよね。
 生・死・病・老に代表されるように、苦は単体でも存在しますが、楽は常に苦とワンセットであり、単体では成立しません。楽は苦が比較的少なくなったときにだけ現れる、蜃気楼のような存在なのです。「楽あれば苦あり」より、「苦があるから楽がある」と表現したほうが、より実情に近いといえるでしょう。
というわけで、やはり基本は一切皆苦。私たちの人生には、苦や不満足が基盤として横たわっているのです。

苦しみの原因は煩悩にある

この、苦(不満足)に関しての教えが四聖諦(ししょうたい)です(四諦ともいいます)。漢字が多くてとっつきにくいですが、身構えず、サラリと読んでみてください。

  1. 苦諦(くたい)。生きることは本質的に苦である(一切皆苦)。
  2. 集諦(じったい)。苦の原因は煩悩である。
  3. 滅諦(めったい)。煩悩を消すことで苦が滅する。
  4. 道諦(どうたい)。煩悩をなくし、悟りを得るための八正道を実践する。

簡単にいえば、不満足の原因は煩悩にあるから、八正道で減らしていきなさい、という内容です。さきほどちらりとご紹介したとおり、ブッダが初めて人に法を説いた転法輪経で、四諦体は八正道の後に出てくるのですが、ここで最初に戻るループ構造になっています。その意図はよくわかりませんが、こだわらずにサクッと進めましょう。

ところで皆さんが瞑想で悟りを開いた際、「四正体」に気づいたことを覚えていますか? 一、脳がさっぱり指示通りに働いてくれないこと、二、思考のタネは自分で選び取るのではなく、次々と勝手に浮かんでくること、三、実際の思考にうつるかどうかについても、自分には決定権がないだけでなく、四、考えていることに気づくのは、「考えるという行為」より常に後であること、の四つでしたね。四正体を通じて無我を経験している皆さんが、加えて四聖諦を理解すれば、四正体+四聖諦=八正道ということで、八正道の実践も容易になってくる、という具合に関連づけて整理してもらえると、筆者としても章を跨いでのダジャレを仕掛けた甲斐があったというもの……、えっ、かえってわかりにくい? それはどうも、すいません。

何はともあれ、すべてが不満足である原因を、ブッダは「煩悩のせい」と喝破したわけです。なるほど、私たちが過剰なまでの欲、怒り、妄想、慢、後悔、嫉妬によって苦しめられているのは間違いありませんし、これらがすべてなくなれば――想像するのはあまり簡単ではありませんが――、苦しみも生まれようがない気がします。

なぜ人間は一切皆苦な存在なのか

そもそもなぜ人間は、煩悩によって苦しむはめに陥ったのでしょう。第Ⅱ章では、自我が錯覚をしたり、自己を肥大させたりと、妙な建てつけになっている理由を、「集団において有能であると宣伝する機関にすぎないから」と説明しました。その結果、進化の過程で淘汰されることなく、子孫を残すことに成功してきたんでしたね。
同様に進化学的に考えると、私たちが欲を始めとした煩悩によって苦しんでいる状況が理解しやすくなります

そもそも私たちの遺伝子は、現代ではなく、古代、狩猟採集時代を生き抜くために適合化したつくりになっています。というのも、人類がチンパンジーとは別の道を歩み始めたのは、なんと六〇〇万年も前で、その後の気が遠くなるような長い期間に、狩猟採集民としての生活に適さない遺伝子は、淘汰されていったからです。一方、農耕が特定の地域で始まったのはほんの一万年前であり、たとえその頃であっても、世界のほとんどの地域では引き続き狩猟採集が続けられていたわけですから、農耕に、ましてや産業革命以降の生活スタイルに合った遺伝子に淘汰されるには、まだまだ時間が足りません。一般的な現代人は、一万年前の人間と、遺伝子的にはほとんど変わりがないのです。

狩猟採集時代は農耕も牧畜もせず、獲物をとって、その日、食べられるだけ食べて終わりでした。保存技術がないため、お肉がないときはタネやイモを食べます。そういう環境にいたら、生き残るのはどういう人でしょうか。腹八分目で自然に食欲がなくなる淡白なタイプか、あるいは、欲望のおもむくままお腹いっぱい食べて、過剰な分は脂肪として蓄えられる貪欲なタイプか、と比較してみれば、後者と考えて間違いないでしょう。現代の生活には過剰ともとれる欲望は、古代の生存競争において合理的であり、それ故に遺伝子内に引き継がれてきたわけです。

甘いものを食べたとき、満足したのは束の間で、すぐに、もっと食べたくなった経験はありませんか。甘いものによって脳でドーパミンと呼ばれるホルモンが分泌され、一時的に快活な気持ちになりますが、その幸福感や快楽は長く続きません。体内で分泌されたインスリンによって血糖値が急降下すると、たとえお腹がすいていなくても、また甘いものが欲しくなってしまうのに加え、場合によっては倦怠感、イライラ、頭痛などが生じます。すると、脳はまた快楽を得ようと、甘いものを摂取することによって、血糖値を上げ、ドーパミンを分泌させようとするわけです。

脳は、自分が得た快感に満足することなく、すぐに次なる快感を求め、欲するようにできています。これも生き残り戦略と考えればきわめて合理的で、「もっと、もっと」と渇望を続ければ、その分、生き残って子孫を残す可能性が高くなるわけです。

セックスだって、同じです。一度の交わりで完全に満足し、一生余韻に浸って生きていくようでは、種は滅びます。多産のためには、束の間は満足しても、しばらくの後、また欲望に復活してもらわなければなりません。つまり人間の脳は、快楽を得るのに貪欲で、かつ、その快楽が長続きしないよう設計されていることになります。それが子孫繁栄の最適解であり、そうでない遺伝子は、貪欲な遺伝子によって駆逐され、淘汰されてしまったわけです。

快楽のトレッドミル――そこにゴールはない

しかし、生き残りに適した脳の機能が、すなわち幸せにつながるわけではありません。欲しいものが得られなければイライラするし、得られたら得られたで、もっと(あるいは再度)欲しいと欲望は再燃し、安定して満足した状態を続けることが難しいのは、先ほど解説した通りです。

これは心理学でも知られており、「快楽のトレッドミル」と呼ばれています。トレッドミルというのは、かごの中でハムスターが走ってカラカラ回る、踏み車のこと。欲望に駆り立てられるままに走り続けても、それは終わりのない循環に  すぎないという現実を、端的に表現しています。今、抱いている欲望が叶えば最終的なゴールである、満ち足りた状態が待っているように感じるのは錯覚で、私たちは快楽を求め、ハムスターのようにトレッドミルを回し続けているにすぎないのです。

欲以外の煩悩も道理は同じで、怒り、嫉妬は競争に勝つこと、慢、後悔は集団の中で自己の優位性を高めることに役立ちます。自我の錯覚によって自己評価を高めることが、狩猟採集時代に生き延び、子孫を残す上で重要だったのと同様に、煩悩も生き残り戦略において、とても有意義なツールだったというわけです。
しかし、それらの煩悩のうち、現代を快適に生きるのに有用なものがどれだけあるでしょう。欲、怒り、妄想、慢、後悔、嫉妬といった感情が強い人の日常を想像してみれば、日々、満ち足りて幸せというわけにはいかなそうだと、容易に想像がつくと思いますし、もはや、それらが子孫を残すのに有利だとも思えません。今という時代を快適に生き延びることを目的として、遺伝子をアップデートすることがもし可能なら、煩悩はかなり少ない量で十分なはずです。

私たちは、強い煩悩が子孫繁栄に有利だった大昔の遺伝子構造を、現在もそのまま保有しているだけであり、逆に、過剰な欲望が私たちを不幸に追いやることに関して、進化の論理は残酷なまでに無関心です。自然選択は、私たちが幸せになることではなく、多産であることを求めます。幸福に過ごすには、遺伝子が仕掛けてくる罠に意識的である必要があり、ブッダの説いた四聖諦は、それに対する気づきと解釈できますし、八正道の実践は、罠を回避し、「本来の清らかな心を保ち続ける」ための対抗策ともいえそうです。

ちなみに、「快楽のトレッドミル」という言葉が初めて登場したのは一九七一年(*七)。この概念どころか、ダーウィンの進化論さえ知らなかったはずのブッダが、「人生は不満足で、その原因は煩悩」と喝破したことは、実に驚嘆すべきことに思われます。

悟り隊式仏教講座、これにて終了

いかがでしたでしょうか。この章では、あちこち話が飛んだり、本来あるべき順番をあえて逆から説明したり、筆者の趣味で不要なダジャレを織り交ぜたりと、読んでいて疲れる場面もあったかもしれませんが、なんと、以上で仏教のエッセンスは大体抑えたことになります。

一切皆苦、諸行無常、諸法無我といった基本的な教え(三相と呼ばれます)や、私たちを日々翻弄する煩悩、特に三毒。それらに打ち勝つための四聖諦と、四正体(これは悟り隊オリジナルで、総本山非公認)、さらに八正道について、皆さんはすでに大筋で理解されたはずです。

すべては、ただ移り変わるだけで実体はないため、最終的な解決策はなく、不満足が続きます。でもそれが、自らが生み出す欲、怒り、迷いといった煩悩によって引き起こされている道理を理解した上で、道徳的な思考・行動によって脳の構造を適正化しつつ、集中し、気づきを入れて、自我という錯覚への執着心を削っていけば、少しずつ日々の生活が平穏になり、幸せで充実した人生を送れるようになることでしょう。

たとえば、お気に入りのマグカップを落とし、割ってしまう事態を思い描いてみてください。まず、落とすのは大抵、考え事をして手元に神経が行き届いていないときなので、日々集中の訓練を続ければ、このようなミス自体が減っていきます。とはいえ、それでも落とすことはあるでしょうが、諸行は無常。すべてのものはうつり変わっていくのですから、マグカップだって、ずっと元の状態であり続ける可能性などありません。無常を忘れ、ずっと存在していくかのように錯覚し、それに対して欲を抱き、さらに、執着心すら抱くから人は苦しむのです。

カップを割った後はご丁寧にも、自らの思考によって、さらに苦しみます。「なんて、うっかりしていたんだろう」、「明日からコーヒーは何で飲もう」、「たくさんの思い出があったのに」という具合に、次から次へと怒りや後悔の念が浮かび、これでもかとばかりに苦しみを増幅させていきます。

しかし、ここですばやく気づきを入れることができれば、そして、執着する必要などないことを思い起こし、嘆きの炎が燃え上がるのを早めに鎮火できれば、マグカップを割ったという行為は一緒なのに、その後の精神状態はずいぶん異なってくるとは思いませんか。
「ああ、割れちゃった」
一瞬は悲しみに襲われるでしょうが、それで終わりでいいはずです。いつまでもしつこく自分を責め続け、悲嘆にくれるメリットなど、どこにもありません。どうでしょう? 仏教の教えはそう複雑なものではないし、現代においても、人生のいい羅針盤になるとは思いませんか。

仏道修行における大体のピースは、これで埋まりました。悟りを開いた上に、ブッダが説いた教えに沿って精進すれば、皆さんは立派な修行者であり、幸せの達人であり、もはや無敵です。大統領ほどの権力はありませんし、億万長者と比べれば資産は少ないですし、映画スターよりもはるかに無名なままですが、それでもしっかりと、地に足のついた幸福な人生を歩むことができることでしょう。

毎日四五分座禅して、年に何回かは厳しい禅の合宿に参加しろといっても、ほとんどの現代人にとって実行は困難です。かといって、「念仏を唱えれば極楽に行ける」と説いたところで、多くの賛同をえられるとは思えません。しかし科学的知見を利用して、即席版とはいえ悟りを開き、その感覚を大切にしながら、新たに時間を割くことなく四聖諦・八正道を歩むコースなら、なんとか達成できるのではないでしょうか。この悟り隊方式こそが、科学がブッダに追いつきつつある時代における、もっとも合理的な仏道修行の在り方ではないかというのが、本書を通じて訴えたかったテーマ、というわけです。

この本で繰り広げてきた謎解きパズルも、そろそろ終わりに近づいてきました。ここでもう一度考えておきたい、最後のピースがあります。
それは「瞑想」です。

参考文献
一 ニック・チェイター(2022 原書は2018)『心はこうして創られる―『即興する脳』の心理学』284頁 講談社
二 内山直(2018)『4週間で幸せになる方法―Twenty-eight tips to create joyful life』73‐7頁 セルバ出版
三 小池龍之介(2011)『超訳 ブッダの言葉』63頁 ディスカヴァー・トゥエンティワン
四 Vohs KD, Schooler JW(2008) “The value of believing in free will: encouraging a belief in determinism increases cheating.” Psychological Science 19(1):49-54
五 友原章典(2020)『実践 幸福学ー科学はいかに幸せを証明するか』122‐8頁 NHK出版新書
六 小池龍之介(2009)『煩悩リセット稽古帳』160頁 ディスカヴァー・トゥエンティワン
七 Brickman P, Campbell DT(1971) “Hedonic relativism and planning the good society.” In M.H.Appley(Ed) Adaptation level theory: Symposium 287–302 New York, NY: Academic Press

───悟り隊・隊長 内山直

※原文はタテ書き

*インデックス 

本企画へのお問い合わせはこちらからお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です