一日で悟りを開く方法企画

たった一日で悟りを開く方法 <4章>

~集中、気づき、無執着で始まる悟後の修行

*インデックス ← 3章 ただ一度の瞑想で悟りを開く

悟り人となった気分はいかがでしょうか。
なんだかフワフワとした、現実感がない気分かもしれません。居心地がいい人も、悪いと感じる人もいるでしょう。世界が今まで居た場所とは、違うものに感じられることもあります。しかし、
「これで世界の成り立ちがわかった。今後はもう、錯覚である自我によって苦しむことはないだろう」
というステージにまで達した人は、さすがに少ないはずです。
そこで本書の後半では、悟った後に必要とされる、悟後(ごご)の修行についてお話しします。

ちなみに本章で紹介する内容は、「考えない練習」などのベストセラーで有名な(元)浄土宗僧侶、小池龍之介が執筆生活の最後に書いた一連の本の一冊、「解脱寸前―究極の悟りへの道(幻冬舎新書)」の巻末で紹介された「瞑想修行の基本ポイント」を元にして、私が日々実践している内容を肉付けの上、記したものにすぎず、「これぞ究極の修行法」と銘打てるような、大層なものではありません。

ならば本書ではなく、高名な禅僧による指南書を参考にしたいと思う人も多いでしょうが、それらの僧は通常、出家した上で修行をしているため、必ずしも一般人向けの解説がうまいわけではありません。そもそも、どんな高僧であっても、基本的には自分が所属する流派の修行法を紹介することになるので、どれが優れているかなど比較しようがありませんし、複数の修行法を比較し、優劣を論じている本も(私が知る限りでは)存在しないため、図書館や書店で探したところで、究極の修行法をみつけることは困難です。そういう意味合いにおいて、様々な流派の修行法を学び、参考にし、また幾度となく失敗してきた筆者が、日常において無理なく実践している修行法を試してみるのも、そう悪い選択肢ではないだろう、と思ってもらえれば幸いです。

雑念を断ち、本来の清らかな心を保つ

テーラワーダ仏教では、悟りには四段階あり、最初の段階を預流果(よるか)と呼ぶ、と第Ⅰ章でお話ししました。預流果に達した人は、真理を一瞬だけでも体験しているため、すでに心のありようが大きく変わっており、その後の進路も悟りを深める方向へ進みやすくなります。今後は逆戻りして、悟りの道から退くようなことはないため、完全な悟りへの聖なる流れに入った、すなわち預かったということで、預流果と呼ばれるのだそうです(一)。本書でも、第3章で瞑想に入る直前に、「今までように、『まるで管理人のように自分自身を統括している』と錯覚した状態には、戻りたくても戻れなくなる可能性がある」と記したことは、ご記憶かと思います。

なぜ本書では、「悟りの道から退くことはない」ではなく、「戻れなくなる可能性がある」とトーンダウンしているのかというと、皆さんの場合、悟り方が特殊な超短期バージョンだったため、心のありようが再度ゆらいでしまう可能性も大いにあるからです。また、第Ⅰ章でも紹介した禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)は、 「見性、すなわち己が本性たる仏の心を見て取った後は、かならず悟後の修行に進まなければならない。さもなくば魔(ま)道(どう)に堕ちてしまう」 と繰り返し強調しています(二)。

特に禅では、悟後の修行こそ重要、と説かれます。車の運転で例えると、悟りは運転免許を得るあたりに相当し、これで公道を車で走ることはできますが、まだまだ危なっかしく、運転の楽しさや便利さを十分に満喫することはできません。ここから運転技術を深めていくことこそが、重要なのだそうです。

では実際の悟後の修行はどんなものかというと、上述した白隠の宗派は臨済宗なので、例の公案がからみ、
「無数の公案に参究することで、悟境を練り上げていくこと」
とされています。
そう言われてしまうと、修行のためには出家するか、私のように臨済宗系の道場に入門し、老師に師事するしかないことになってしまいます。そもそも、「悟る」にあたっては、すでに何らかの宗派に属して修行に励んできたことが前提になっているため、皆さんのように本一冊で悟った人に対するガイダンスは、僕が知る限りありません。

しかし白隠は悟後の修行について、こうも言っています。
「雑念を断ち、本来の清らかな心を常に保ち続けること」
ちょっと抽象的ですが、これなら特定の宗派に入門する必要はなさそうです。というわけで本章では、「雑念を断ち、本来の清らかな心を常に保ち続けること」を目標に、せっかく体得した無我を最大限に活かす修行法について、考えていきたいと思います。

悟後の修行は手間いらず

原理原則に則って述べるなら、次のように言うこともできます。あなたはもう無我、すなわち、これまで考えていたあなたの管理人のような自我はないのだと、理屈だけではなく、実感と共に理解しています。あなたはいません。だから、あなたは今後、怒ったり、後悔したり、嫉妬したり、欲求したり、自慢したり、気持ちをさまよわせたりして苦しむ必要も意義もありませんし、もちろん病気になることも、死ぬことも苦しくありません。だって、苦しむ主体である、自分自身が存在しないのですから。

この解説に対し、「確かに」と心から賛同した人は、おそらくいないでしょう。悟りの境地が深まって死すら恐れなくなったら、それはテーラワーダ仏教における悟りの最終段階「阿羅漢果」であり、さぞすばらしい境地なのでしょうが、例え出家して生涯を修行に捧げても、そのレベルに到達するのは容易ではありません。ましてや悟り隊の皆さんが、この本のガイダンスでたどり着く可能性はゼロです。

残念? いえいえ、ちょっと想像すればわかると思いますが、出家もせずに、生きる欲求すらない境地に至ることは、はなはだ危険です。周囲の手厚いサポートがない限り、じきに俗世でよく使う意味での成仏、つまり亡くなってしまうことになりかねませんので、これに関しては「残念ながら」ではなく、「安心してください」と言っておくべきでしょう。

無我ゆえに一切の苦しみが消える、という仏教上のゴールまではいかなくても、それに近い、苦しみのより少ない境遇に近づけていく――ここでいう悟後の修行はそのようなものだと考えてください。
――ゴールにはたどり着けないってことは、いつまでも終わらない。つまり、悟後の修行は一生続くの?
はい、その通りです。
――簡単に悟れるっていうから、ここまで真剣に読んできたのに、悟った後が長いって、それじゃあ、まるで詐欺じゃない?
答えは、もはや「あなた」はいないのだから、そうクレームを述べている「主体」は存在しない、つまり、そのクレームは存在しえない……、いい加減、しつこいですね。ふざけてばかりいると、本当に詐欺っぽい感じになるので、このへんで真面目にお答えしますと、はい、確かに悟後の修行は一生続きます。

しかし悟り隊での修業は、毎日、四五分坐禅するとか、写経をするとか、あるいは滝に打たれるといった面倒なものではなく、今まで通りの日常生活にアクセントを加えるだけです。皆さん、(多分)毎日歯を磨くでしょう? (おそらく)風呂に入るでしょう? 面倒ですか? 面倒かもしれません。でも、さほどの苦痛ではないでしょう(二次会で飲み過ぎてさえいなければ!)。

犯罪をおかさないのはもちろんのこと、車の運転では事故を起こさないようにするし、社会生活でも、人をむやみに傷つけたり、怒らせたりしないよう、ある程度、気を配っていることと思います。悟り隊での悟後の修行は、それに仏教的エッセンスを加えるだけのものであり、新たに時間をつくる必要はほとんどありませんので、気を楽にしておつき合いください。これから書かれているような注意点を自分のものにし、習慣化してしまえば、悟りはどんどん深まり、その果実は生活のあらゆる側面に潤いを添えることでしょう。

ただし、決して「簡単」とは言いません。この章で述べる方法は、簡単そうにみえて意外と難しい。なぜなら私たちは、「確固たる自分がある」という錯覚に馴染み過ぎているため、ちょっと意識がゆるみ、脳の自動運転に身を委ねると、たちまち錯覚の世界に逆戻りして、右往左往するはめになるからです。
特に最初は、かなり意識的に取り組む必要があるので、ちょっとだけ頑張ってみてください。努力の甲斐がある挑戦であることは、すぐにわかっていただけると思います。

一つひとつの行動に集中してみる

先ほど悟後の修行について、白隠の「雑念を断ち、本来の清らかな心を常に保ち続けること」という言葉を引用しました。
第2章、第3章でわかったとおり、自我は錯覚にすぎません。自我の暴走を抑えれば、日々の生活を楽しく、軽やかに、そして的確に送ることができますが、それにはまず、自我が暴れ出す様子や、ないはずの自我に執着してしまっている状態に気づく必要があり、ある程度の集中力が求められます。ぼーっと生きていれば、カッとした瞬間に、思わず怒鳴ってしまったり、あるいは、脳内で相手を攻撃する言葉やイメージを執拗に繰り返し、クタクタに疲れ果てた後になってようやく、「あ、自我が暴走してた!」と気づいたりするはめになりかねません。

というわけで、最初に心に留めてほしいのは「集中」です。なにごとにも集中していれば、雑念に翻弄されたり、意図しなかった思考により、いつのまにかネガティブな気持ちになったり、あるいは、言語野が作成したでっち上げに自分自身が惑わされたりする機会が減るのに加え、いち早く自我の暴走に「気づく」ことができます。気づいてこそ始めて、これは本当の自分のものではないから、執着する価値はない、つまり「無執着」でいいのだと判断できるわけです。本章では、「集中」、「気づき」、「無執着」の重要性を理解するとともに、その活用法について掘り下げていきたいと思います。

最初は集中について。わかりやすく例をあげると、「歯を磨く時は、歯を磨く行為に集中すれば、ほとんどの場合、きちんと歯を磨くことができます」ということ。「今までだって、ちゃんとできているよ」、と主張する人もいるでしようが、それは本当でしょうか。磨き残しはないですか。どこまで磨いたか、途中でわからなくなることはないですか。ひどい時には、歯磨き粉が歯ブラシの上にうまく乗らず、ボトリと洗面器に落ちてしまったりしませんか。もちろん、それでは失敗でしょう。私たちは、常に考えごとにとらわれながら行動しているため、歯磨きというシンプルな課題さえ、うまくこなせないことが多々あるのです。

そこで、歯を磨く時は、その行為に全身全霊を傾けるようにしてください。可能な限り集中して、脳の自動運転にとらわれて考えごとを始めたりせず、歯の一本一本を慈しみながら、丁寧、かつ迅速に磨き、最後に少量の水で口をすすげば、何の問題もなく終了するはずです。たったそれだけのことを、ぜひ、大真面目に行ってみてください。歯医者さんで指導を受けた直後のように、一〇〇パーセント集中しながら磨けば、今まではきちんと磨けていなかったことや、効率よくやれていなかったという現実に気づくことでしょう。

単純作業こそ重要

浴室で髪や体を洗う、食事をする、通勤、通学する、挨拶する。こういった、ほぼ無意識でできてしまうことこそ重要です。瞑想の間、様々な雑念が浮かんできて驚いた人も多いと思いますが、雑念は瞑想中だから湧いて出たわけではありません。常に頭の中を駆け巡っていて、瞑想中だから、その状態に気づいただけなのです。

もちろん、仕事や娯楽に集中しているときは、雑念が消えるタイミングもあるでしょうが、普通は長く続きません。人は皆、驚くほど多くの雑念にまみれながら日々の業務をこなしており、特に単純作業においては、頭が雑念で占拠されているのが普通です。私たちの体は自動操縦に慣れているため、たとえきちんと意識を向けていなくても、クヨクヨする必要がないような小さな失敗ですむことがほとんどですが、小さいとはいっても失敗は失敗であり、その状態が一日のほとんどに渡って継続されれば、人生全体の達成度はどんどんマイナス方向へ落ちこんでいきます。

単純作業をしている間に、いつのまにか未来や過去に思いをはせ、無駄に消耗している脳のエネルギーを、すべて「今、ここ」の気づきに向けましょう。そうすれば、体は自然と本来の働きへと帰っていきますし、それによって「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンの分泌も高まるため、作業後に、気持ちがすっと楽になる感覚を味わえたりもします。雑念のない状態は、私たちに重荷を下ろしたかのような爽快感をもたらしてくれるのです。

とは言っても、実はこれだけで、かなり難易度は高め。気合が入っている初日はなんとかなっても、二、三日目あたりから気が抜けて、歯を磨き終わってからはじめて、「そういえば集中するの、忘れてた!」と気づくケースも出てくることでしょう。そのような場合の対策として、浴室や洗面室の入り口、あるいは自分の歯ブラシやシャンプーに、ビニールテープなど目印になるものを貼っておくことをお勧めします。私たちは常に考えごとをしながら、脳の自動操縦に操られるようにして生活をしているため、そのくらい徹底しないと、「歯磨きなどに集中する」という課題すら覚えていられないのです。

とにかく、まずは最初の三週間だけ、しっかり意識を向けてみてください。習慣づけは三週間で達成されるとよくいいますが、実際に三週間、ある習慣を継続すれば、神経可塑性と反復の相互作用によって神経回路が変わり、その後の継続が容易になることが知られています。ついこの前まで脳に操られていた自分が、逆に脳の性質を利用する側に回るというのも、気分がいい話だとは思いませんか。

瞑想的に食べる

ここまでの課題がうまくいって軌道に乗ったら、集中する範囲を、少しずつ広げていきましょう。次にお勧めなのは、食事です。スマホやテレビの画面を眺めながら、食事をすることはないですか。そのような「心ここにあらず」な食べ方だと、食事による満足感を得にくく、つい食べ過ぎる原因になりますし、何よりも、せっかくの食事を目一杯味わうことができません。

おしゃべりに夢中になりながらの食事も同じ。もちろん食事には社交的な意味合いもありますので、家族や友人と一緒に楽しむ機会があってもいいのですが、一人で食事をするときは、ぜひ、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感、すべてをしっかり使うことを意識して、ゆっくり、かつ食材に感謝の念を向けながら食べてみてください。読んでいる今は面倒に感じているかもしれませんが、時間の余裕があるときに一度でも試してみてもらえば、集中して食べることによって味わいが深くなり、満足感の質が高まることに気づくはずです。
実際にやってみて、さらに興味が湧くようなら、次に述べる「食べる瞑想」に挑戦してみるのもいいでしょう。

  1. まずは二~三回深呼吸をして、自分の意識に集中し、リラックスします。
  2. 体の内側を観察し、自分がどれだけ空腹なのかを感じとります。
  3. その食べ物を初めて見るような気持になって、色や形、香り、さらに触れられるものであれば、触感もじっくり味わいましょう。
  4. 口に入れてもすぐには噛まず、舌の上にのせて転がして、触感や風味を口の中一杯に感じます。
  5. それから、ゆっくりと噛みましょう。味や感触をしっかり味わいながら、それらが変化していく様子も観察します。
  6. 噛めなくなるまで味わってから飲み込みます。最後に、喉や食道を通る感覚もしっかり意識するようにしましょう。

食べる瞑想には余計な時間を必要とするので、悟後の修行のための必須項目には入れませんが、もし気に入るようなら、たまに繰り返すようにすると、悟りについてだけでなく、食に対する理解も深まるかもしれません。

瞑想的に歩く

その他にもたとえば、歩行は意識を向けるいいターゲットになります。ある通りを歩きはじめて、数分後に曲がり角までたどり着いたものの、どうやってそこまで来たのか、完全に記憶が飛んでいるようなことはありませんか。もし悟りによって、瞬間移動の能力を身につけたのなら素晴らしい話ですが、おそらくは考えにふけっていただけでしょう(残念!)。

歩く行為は体にしみついた、慣れ切った動作なので、あまり集中する必要がありません。体がひとりでに歩いてくれるので、深く思考の闇に沈んでしまいがちです。歩いているときにいいアイディアを得るというのも、よく聞く話ですから、一概にダメとは言いませんが、常に思考に縛られるのではなく、歩く動作そのものに集中して思考を排除する訓練は、とてもいい仏道の修行になります。もちろん、歩きスマホは論外ですので、念のため。

まずは、できるだけしっかりと、自分が歩く様子に集中してみてください。瞑想のときと同様にすぐに雑念が浮かびますが、可能な限り素早くそれに気づいて、意識を歩行に戻すことを繰り返しましょう。特別な歩き方をする必要はありません。そして、これも食事同様、集中度を上げれば立派な瞑想であり、現に「歩行禅」や「歩く瞑想」という言葉もあるくらいです。食事の場合と違って余計な時間をとらないので、ぜひ試してみてください。

  1. 歩き始めたら、体の感覚を確かめてみましょう。体が重いか、軽いか、あるいはリラックスできているかといった点に意識を向けます。
  2. 目に入るものに意識を移します。すれ違う人、信号、車、看板、建物、もし田舎なら、畑や木々が見えることでしょう。見えるものについて考えるのではなく、ただ意識を向け、認識するにとどめます。
  3. 次は、音に注意してみます。自分の足音の他に、車の音や、鳥の鳴き声、人の話し声などが耳に入ってくることでしょう。
  4. 体の感覚にも目を向けてみます。日の光の暖かさ、風の冷たさ、体の横で前後する腕の重み、あるいは首や肩の凝りを感じるかもしれません。何ら判断を下したり、感想を加えたりすることなく、それらをただ観察してください。
  5. それからいよいよ、歩いている感覚に注意を向けましょう。両足が交互に前へ出て、腕の動きにも助けられながら、体は前へ前へと進んでいきます。もし余力があれば、足の裏に神経を集中させ、踵からついて、重心がつま先に移り、やがて逆の足の踵が着地して重みを感じていく推移をしっかりと観察してください。基本的に集中の対象は小さいほうが、より強い集中力を必要とするため、難易度が上がり、いい訓練になります。うまく行くときは、どんどん集中の範囲を狭めていくといいでしょう。

交通事故にあっては困るので、周囲のものをすべて締め出すほど強く集中する必要はありません。身の回りで起きることや、そこから来る景色、音、臭いなどに気持ちを広く開き、雑念や思考で心が再び内にこもったのに気づいたら、すぐさま意識を歩行に戻してください。

動中の工夫は坐禅に勝る

歯磨き、洗髪・洗身、次いで食事や歩行に集中する訓練を順番に、少しずつ開始し、一旦始めたものはとりあえず三週間、がんばってみましょう。集中力が増し、訓練が軌道に乗るにつれ、それによる効能も少しずつ実感できるようになるはずです。

ちなみに、本章の冒頭で紹介した白隠は、「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉を残しています。静中はお馴染みの坐禅で、動中は日常生活における諸作業のこと。坐禅ばかりが修行なのではなく、日常のそれぞれの場面において、しっかり集中することこそが大切との教えです。歯磨きや歩行に集中するなど、安直すぎて、どうせたいした効果はないだろうと思いがちですが、実際にやってみると意外と難しいこと、そして、うまくいけば気分がすっと上向くことは、始めてみればすぐに実感できると思いますので、ぜひ、はりきって励んでください。

もし、いろいろとうまくいって、単純動作に集中するのに慣れてきたら、さらに範囲を拡大して、一日の大半で思考の空回りを排除し、取り組んでいる事柄自体にしっかり集中して過ごすよう努めましょう。そこまで到達すれば、たとえ座って瞑想することはなくても、すでに立派な修行者です。繰り返し強調したいのは、これらの課題をこなすにあたり、皆さんの貴重な時間を割く必要はまったくないということ。今までも行ってきた日常の一コマ一コマを、より意識的に行うだけで、徐々に集中力が高まり、脳内での過剰な思考に振り回される頻度は減っていきますし、集中力が高まれば高まるほど、次のステップである「気づき」がより容易になっていきます

気づきを入れるということ

どのような感情であっても、冷静、かつ客観的に観察すると、すなわち「気づき」を入れると、空回りしたり、暴走したりせず、徐々に沈静化していきます。

たとえば、家族や友人にひどい言葉を投げかけられ、「許せない!」と怒りで頭が真っ白になっているようなときは、自分が怒り狂っているという事実に気づいていません。脳のゆらぎが引き起こした錯覚にすぎない感情のぶれを、完全に自己と一体化させてしまっている状態といっていいでしょう。反対に、頭で渦を巻く感情からある程度距離をとって、その様子を冷静に眺めることができれば、怒りは自然と収まっていきます。

感情をしっかり観察しながら怒り狂うことは、実は不可能なのです。怒り以外でも、何らかのネガティブな感情が湧いてきたら、無意識のままに爆発させるのではなく、素早く察知することが重要であり、そのために、常に心を観察下に置く練習を始めてみましょう。自分の内面を、外側からもうひとりの自分がチェックしているような感じです。

これをテーラワーダ仏教では「サティ」といいます。日本語に訳せば、先ほどから書いている通り「気づき」ですし、お固く「正念(しょうねん)」と訳せば、仏教修行の根底をなす八正道(後述します)のひとつになります。また、英語だと「マインドフルネス」で、昨今よく聞く「マインドフルネス瞑想」にあたりますし、サティの実践を教学的に整理して生まれた言葉「ヴィパッサナー」は、テーラワーダ仏教での修行法である、ヴィパッサナー瞑想へと繋がります。

こう並べてみれば、仏道の修行において、「気づき」がいかに重要な地位を占めているかは一目瞭然でしょう。しかし、考えてみれば当然の話で、そもそも自分の意識にできることは、「自分が自由意志で行っていると錯覚する」か、あるいは「客観的視点に立って観察する」のどちらかしかないのです。第Ⅱ章、第Ⅲ章を読む前は、ほぼ前者しか働いていなかったと思われますが、今後は極力、後者に留まる時間を長くしていくというのが、ここでの課題だと考えてください。

ネガティブな感情を放っておくと、それが無意識のうちに増幅し、やがてメラメラと心を燃えつくさんばかりに広がってしまうことは、誰しも経験があることでしょう。一方で、火が小さいうちに、いち早く気づくことができれば、消火も容易ですし、たとえ完全に鎮火するまでは至らなかったとしても、延焼被害を食い止めるくらいはできます。感情に一々「気づきを入れる」というのは、実に画期的なアイディアだとは思いませんか。
なお、「自分が物事を認知している様を、客観視している状態」を心理学では「メタ認知」と呼びます。アメリカの心理学者、ジョン・H・フラベルがそう定義したのが一九七〇年代ですから、自由意志の最初で紹介したリベットの一連の研究とほぼ同じ時期にあたります。やはり科学は、ブッダを二五〇〇年遅れで追いかけているようです。

イライラや怒りに気づいてみよう

気づきを入れるための具体的な練習法として、まずは「イライラ」に注目しましょう。イライラはネガティブな感情の中でも、特に高頻度で生じるため、とっかかりとしては最適です。この先、もしイラっとすることがあったら、一刻でも早くその事実に気づくよう注意しながら過ごしてみてください。
そう書くと、少し前のあなたでしたら、
「いやいや、自分の意志でイラっとしているんだから、イラっとする直前か、遅くともイラっとした瞬間には気づいているよ」
と考えたかもしれませんが、瞑想体験を得た今は、
「その瞬間に気づくと思っていたけど……いや、わからないぞ」
と懐疑的になっていることと思います。

実際に観察してみればわかると思いますが、瞑想での雑念や思考同様、先に意思決定をしてからイラっとすることはありません。問題は、イラっとした後、どのくらいでその感情に気づいているかで、即座に気づくこともあれば、数秒か数分、場合によっては数時間かかることもありますし、最後まで自分では気がつかないことさえあります。

まずは、「イラっが先で、気づきが後」であることをしっかりと確認したら、そこからは、できるだけ早く気づくよう努めてください。これが集中の次にくる、気づきの練習ということになります。
イライラよりも強い、「怒り」の感情が湧いた場合も、同様に気づきを入れます。「腹が立ってきたぞ」と心の中で呟いてもいいし、「怒り、怒り、怒り」と唱えるようにしてもかまいません。これだけでかなり気持ちが落ち着いてきますし、さらに余力があれば、そのときの体の状態も観察してみましょう。
「頭に血が上って、クラクラするなあ。逆に手足は冷たくなって、小刻みに震えている。胃に少し違和感があるから、このままいくと痛みだすかもしれないぞ」
ネガティブな感情がいかに体を痛めつけているのかを実感できれば、それを手放すのも容易になるはずです。やってみてもらえればわかると思いますが、これは口で言うほど簡単ではありません。最初のうちは、すっかり感情に振り回され、クタクタになった後にようやく、
「そういえば、気づきを入れるのを忘れてた!」
と気づかされることのほうが多いでしょう。歯磨きのところでも似たようなことを書きましたが、私たちは常日頃から、操られるように思考・行動することに慣れきっているため、自分の感情が移ろう様子に気づくことすら困難なのです。しかし、筋トレを続ければ少しずつ筋肉がついていくように、真面目に取り組めば心も徐々に成長していきます。さらに、並行して行っている(はずの)集中の修行が、気づきの精度を高めるのに一役買ってくれることでしょう。

存在しない自我に執着しない

集中し、気づきを入れたら、最後は無執着でしたね。ここでようやく、皆さんが悟りを開いた成果を、存分に生かすことができます。
引き続き怒りの感情を例にとると、怒りを覚えたらできるだけ早く気づきを入れ、感情を客観視するとともに、怒りの感情があなたのものではなく、脳のゆらぎや、たまたまコントロールをもったモジュールがもたらした錯覚、あるいは幻想にすぎないことを思い出すのです。自分の大切な自我が怒っていると信じている限り、怒りもなかなか収まりませんが、それが単なる脳の暴走であり、「自分」なるものが怒っているわけではないことを、すでに皆さんは体感しています。ならば怒りの感情を、まるで他人が怒っているかのように、突き放してしまえばいいのです。

慣れるまでは、自分自身を他人扱いした上で、まるで物語を語るように、
「やれやれ、また自我が怒っちゃってるなあ」
と、心中であきれるなり、苦笑するなりした上で、「さっさと思考の渦から抜け出して、『今』に気持ちを向けなくちゃ」と切り替えることができれば、怒りは急速に収まっていくことでしょう。

そう、自分のネガティブな感情を、自分のものと錯覚して執着するのをやめ、「無執着」と切って捨てれば、もはやつまらない感情に縛られて自らを消耗させたり、判断を誤ったりすることはなくなるのです。これこそが、悟りから得られる最大の果実といっていいでしょう。この無執着を強固にするために、まず自我がないことを知識で知る、次いでその知識を体感する、すなわち瞑想体験を通じて悟りを開くという、悟り隊独自のメソッドが有用というわけです。

「ここでようやく前章の悟りとつながったなんて、なんとわかりにくい構成!」
そう感じて、イラっときている人がいるかもしれないので(気づきは入れましたか?)弁明をしておきますが、通常、仏教のテキストでは、集中→気づき→無執着の訓練があって、悟りはその後にきます。ところが皆さんの場合、最初にさっさと悟ってしまったので、その後の解説はところどころ、おかしな順番にならざるをえないというわけです。起承転結の結が最初にあって、その後に起承転がくるので、結から起がつながりにくい、というところでしょうか。
この後も似たような展開が出てきますが、なんとか悟りの智恵で乗り切ってくださいませ。

相手の非礼も、自分の肉体も幻想と心得る

無我、そして無執着を利用してネガティブな感情に対処する方法を、別の角度からあと二点、記しておきます。先ほど述べた「自分自身を他人扱いする」やり方は、私にとってはとても有効で重宝しているのですが、別の対処法のほうが効くという人もいますので、皆さんには、自分に合ったものを選んでいただければと思います。もちろん複数を使い分けてもOKです。

まずは、無我の理解を自分ではなく、相手に向ける方法。相手を仮にAさんとしましょう。Aさんが失礼な態度を取ってくれば普通は腹も立ちますが、そのとき、「腹を立てている自我は単なる脳のゆらぎであり、錯覚にすぎない」と理解するのと同時に、Aさんの失礼な態度のほうも、実はあまり意味をもたないのだと気づけば、「どうでもいいや」の相乗効果が得られます。

あなたに対する非礼を引き起こしたのはAさんの本性ではなく、そのとき、たまたまAさんの脳内で生じたゆらぎにすぎません。それさえわかれば、もっと礼儀正しい、いつものAさんが自分の中に戻ってきますから、「お互い妙な行動をとってしまうこともあるよね、よしよし」という具合に、慈悲の気持ちへと切り替えられることでしょう。単なる脳のゆらぎ同士が原因で、実際に本人同士が敵対感情をもつなど、考えてみれば無益な話なのです。

このような手法を繰り返した末に、人からの非礼はもはや相手にしないというレベルにまで上達すれば、悟りはかなり深まったといえます。相手の無意識に反応して入り込めば、それはあなたにとって真実になりますが、反応さえしなければ終始幻想のままに留まり、あなたの世界では存在しないまま消え去っていくのです。

もうひとつは、道場で知り合った先輩修行者から教わったテクニックで、ネガティブな反応を引き起こしているものが、スーッと体の中を通り抜けていくイメージをもつというもの。たとえば、夜遅くに隣家から喧嘩や音楽、あるいは麻雀などの騒音が聞こえてきたとします。あなたがイラっとするとしたら、それは騒音があなたの中にとどまり、怒りの反応を引き起こすのにまかせているからに他なりません。

そう、「イラっ」の犯人は騒音ではなく、あなたの思考そのものなのです。ここで、自分の肉体も実体のない「分子の淀み」であることを思い起こし、心に抵抗の壁をつくって騒音を留める代わりに、そのままスーッと素通りさせてしまいます。抵抗を手放してしまえば留まるものもなくなり、もはや、あなたを傷つけるものはありません。

その上で騒音が続き、生活に支障をきたすようなら、もちろん文句を言いに行ってもいいでしょう。しかし、怒りの反応に駆られながら苦情を言うのと、ネガティブな思考に支配されることなく、平穏な心持ちのまま希望を伝えるのとでは、交渉の結果や、その後の隣家との関係も大きく異なってきそうです。
両方とも、決して簡単ではありませんが、もしマスターすれば日々を平穏に送るための、強力な武器になることは間違いありません。いきなり大きな課題で挑戦するのではなく、まずは日常の小さな「イラっ」で試してみて、コツをつかむようにするといいでしょう。幻想に執着するのをやめれば、たちどころに世界は姿を変え、人生はどんどん好転していくのです。

貪欲・怒り・迷いの三毒を手放す

集中から始まって、気づきを経由したトレーニングが、ようやく無執着までたどり着いたところで、ここからは、それが生活全般にもたらす効能について解説いたします。

西暦八〇〇年頃の中国の禅師、龐居士(ほうこじ)は湖北省の生まれで、石頭(せきとう)と馬祖(ばそ)の元で厳しい修行を積みましたが、出家することはなく、在家の信者として禅の精神を追求しました(居士とは出家せず修行をする男性のこと)。その卓越した禅の境涯は後世に語り継がれ、龐居士語録としてまとめられています。
その龐が、師匠のひとりである石頭に、「悟ってから、どんな具合じゃ」と聞かれたときの答えがこれです(*三)。

日用の事 別無し、唯だ吾れ自(おのずか)ら偶(たまた)ま諧(かな)うのみ

悟りを開いたからといって、空を飛べるわけでも、水の上を歩けるわけでもありません。龐は、
「特別のこともありません。思慮分別にわたらずスラスラとやって、それが自らの道に合致するようになっただけのことです」
と答え、石頭は、
「おぬしの悟りは本物じゃ」
と満足したと伝えられています。

心のネガティブな反応について、先ほどは「怒り」を例に解説しましたが、その他にも主なものとして「欲」と「迷い」があり、仏教では三つの代表的な煩悩、「三毒」と呼ばれています(伝統的には貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))。

「欲」は快感を与えてくれるものを、引き寄せようとするエネルギー。求めすぎたり、期待しすぎたりすると生じる煩悩で、物質的な富だけではなく、全般的な渇望感を指します。たとえば自分のイメージやプライドにしがみついている状態、「慢」もこの系統で、欲の煩悩エネルギーを原材料にして、(錯覚である)自我を肥大させている状態を指します。

「怒り」は逆に、不愉快な対象を押しのけて排除しようとする反発のエネルギーで、日常語における「怒り」より幅広い意味で捉えてください。単なる「イライラ」、「不機嫌」も怒りですし、「後悔」は怒りの煩悩エネルギーを原材料に、過去のネガティブな記憶を繰り返し、負の刺激を刷り込む状態、「嫉妬」は、人の幸せを受け入れられず、そのために苦しむ様子で、同様に反発のベクトルでまとめられます。

最後の「迷い」は三毒の根本をなす煩悩エネルギー。現実を見ず、脳が紡ぎだす刺激的な世界へ逃避しようとさ迷う力で、「あれこれと、つい余計なことを考えてしまう」、あるいは、「落ち着いて物事に取り組めない」といった状態を指します。この回転エネルギーをベースにして、反発する「怒り」と、引き寄せようとする「欲」が生じるわけです。逆に迷いがない状態、すなわち集中し、気づきを的確に入れられる状況を維持できれば、怒りも欲も生じにくくなります。仏教独特の分類であり、慣れるまではかえってややこしく感じるかもしれませんが、ネガティブな感情のありようが実にうまく整理されているように私には思えます。

脳が勝手に反応するまま放置せず、状況を意識的に理解することさえできれば、これらの煩悩に悩まされる頻度はどんどん減っていきます。ただし、ここでいう「理解」に「判定」は含まれませんので注意してください。正悪を考えず、ただ見ているだけでいいのです。そもそも即座に下される判定は、脳のゆらぎがもたらす事象にすぎませんから、そこでまた新たな負の感情を引き寄せてしまう事態になりかねません。日々、少しずつ「無我」の理解を深めて執着を減らし、よりクリアな心で、状況を正しく観察することができれば、ネガティブな感情に振り回されることなく、歯磨きといった諸作業を初めて「スラスラ」と遂行できるというわけです。

なお、うまく気づきを入れられるようになると、今まではわりと道徳的だと思っていた自分の心が、実は強く煩悩に支配されていたのだと知り、ショックを受けることがあります。その際は、あなたが人として至らないのではなく、周りの人も皆、煩悩にまみれて生きているのだということを、しっかり思い起こしてください。人間はそもそも、そういうふうに作られているのです。

しかし、我々の心理的適応力には目を見張るものがあり、この状況にもじきに慣れるので、心配はいりません。煩悩を目の当たりにする状況は不快ではありますが、悟る前は自らの不善さをろくに意識しないまま、それに支配されていたわけですから、直視できるだけで大きな前進であり、最終的に深い安らぎを得るための、一時的な試練なのだと捉えてください。

集中、気づき、無執着で生活はこう変わる!

次に、生活が具体的にどう変わっていくのかについて、一日の流れのうち、ありがちな例を挙げながら説明していきましょう。

まずは朝。まだまだ眠り足りなくて、起きるのがつらい日も多いでしょうが、そういうときは、すぐさま「自分の心」を観察します。「もっと眠っていたい」と思っているのなら、それは引き寄せのエネルギーである「欲」に該当しますから、「欲、欲、欲」と心の中で唱え、大事な自分が切実に睡眠を欲しているのではなく、暴走した脳が「もっと、もっと」と貪欲になっているだけと切り捨てましょう。すると今度は、「寒くて、布団から出たくない」と感じるかもしれません。これは反発のエネルギーである「怒り」。「怒り、怒り、怒り」と気づいて、脳の反応を止めればいいわけです。

臨済宗系の在家道場に通い始めた頃、禅の神髄などろくに考えたことのない私が、修行歴四〇年を超える年季の入った修行者に、「無我がわかると、人生は変わりますか」との不躾な質問を投げかけたことがあります。
そのとき返ってきたのが、
「朝、目覚ましの音で、さっと起きられるようになりますよ」
という返事で、あまりに些細な効能に、肩透かしを食った気分になったものですが、多少は修行が進んだ今になって思えば、その先輩修行者は、龐の心境に近いものを表現されたのだと見当がつきますし、加えて、性急に答えを欲しがる私をたしなめる意図もあったのかもしれません。

さて、布団から抜け出せたはいいけれど、次は、どうにも仕事(学校)に行く気にならないという日もあることでしょう。一日のノルマを思い出して気が重くなったり、逆に、次の週末の予定について思いを巡らせ、気もそぞろになったりという状態は、脳が紡ぎだす刺激的な世界への逃避、すなわち「迷い」に当たります。「迷い、迷い、迷い」と念じ、脳内世界から離れて、現実に取り組むべき課題に集中するようにしましょう。

ようやく心の反応を抑え、落ち着いた心持ちで仕事場にたどり着いたところで、提出しておいた書類の間違いを上司に指摘され、がっかり、あるいはイライラする日もあるでしょう(いやはや、まさに一切皆苦(いっさいかいく)ですが、この言葉については後ほど)。そういうときは自分の主な反応が、上司への反発である「怒り」なのか、プライドが傷ついて辛い「慢」なのか、ミスを犯したことへの「後悔」なのか、あるいは、自分より評価が高い友人への「嫉妬」なのかを判別し、脳がしでかした過剰反応に一瞬でも早く気づきを入れましょう。そこで、錯覚にすぎない自我への執着を弱めることができれば、心に再び平穏が訪れるはずです。

そして、集中。しっかり集中すれば、リセットしたはずの脳の反応が再び頭をもたげる事態も防げます。ここでまた最初に戻って、集中の二文字が出てきたことからもわかるように、やはり悟後の修行は、集中、気づき、無執着の三点が肝のようです。

何度も書いてきたとおり、この一連の心理的動作は、一見簡単そうにみえて、実はかなり大変です。焦らずに、昨日より一秒でもいいから集中の時間を長くし、一回でも多く気づきを入れるよう心がけ、ジリジリと、少しずつ心を鍛えていってください。その努力はいつの日か、あなたが想定していた以上の効能をもたらし、仏道のありがたさに驚嘆することになるでしょう。

参考文献
一 藤本晃(2005)日本テーラワーダ仏教協会・機関紙『パティパダー』5月号
二 柳幹康(2020)『悟後の修行(上)上求菩提』花園、第70巻、第1号(通巻第821号)
三 芳賀洞然(1996)『五燈会元鈔講話―中国禅界の巨匠たち』132‐3頁 淡交社

───悟り隊・隊長 内山直

※原文はタテ書き

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