一日で悟りを開く方法 <2章>
~科学が明かした「無我」という真実
*インデックス ← 1章 私はこうして「悟りに科学を」と考えるに至った
予告通り、この章では悟りを開くための助けになるであろう、科学的知見を紹介していきます。できるだけかみ砕いて解説しますが、普段、科学論文を読む機会がない人にとっては、多少わかりづらい箇所もあるかもしれません。しかし、この章の理解は、次の第3章で悟りに至るために、欠かせない過程です。疲れたら一息入れたりしながら、しっかりと読み解いてください。
なお前章で述べた通り、初期経典上に明確な悟りの定義は存在しませんが、本書では比較的一般的と思われる、「無我の体感的理解」をもって悟りとさせていただきます。皆さんは、早ければ三十分後には無我を知識として理解し、一時間後くらいには、それを体験する、すなわち悟っているという段取りになっていますので、ぜひ、はりきって取り組んでください。
私たちの行動に自由意志はない
二〇〇五年、三六歳の頃、心理療法士・リチャード・カールソンによって書かれた啓蒙書(*一)で推奨されていたことをきっかけに、私は瞑想に興味をもつようになりました。本には、「あなたの地元にも瞑想クラスがあるはずだ」と記されていたので、念のため調べてみましたが、残念ながら(そして予想通り)ひとつも見つかりませんでした。当時の日本の地方都市で、瞑想に興味をもつ人はあまりいなかったようです。
最初は、「はたして私たち人間に、自由に意志決定を行う能力があるのか」というテーマについて。有名な知見なので、ご存じの方もいるかもしれませんが、まずは古典中の古典、ベンジャミン・リベットによる研究(*一)を紹介します。科学はこのとき初めて、二五〇〇年前にブッダが説いた「無我」に追いついたといっても過言ではない、歴史的な実験です。
被験者は椅子に座り、テーブルの上に手を置きます。そして、目の前の時計を見ながら、好きなタイミングで手首を曲げるよう指示されました。その際、脳波も測定され、運動をつかさどる脳波(準備電位)が、いつ出るのかについても調べられます。実験の結果、脳が「動かそう」と準備を始めてから、〇・五五秒後に手首が動き始めていることがわかりました。脳の動きが先で、動作がそれに続く、とここまでは不思議はありませんし、準備から実際の動きまでが〇・五五秒というのも、少し長すぎる気もしなくはありませんが、大きな違和感を覚えるほどではないでしょう。
問題は被験者が、「手首を動かそう」という意志をもったのが、どのタイミングだったのかという点で、これがなんと、動き始める〇・二秒前だったのです。「意志」が「実際の動き」の〇・二秒前、そして、「動かそうという準備の脳波」は「実際の動き」の〇・五五秒前ということは、最初に起きるのは「脳の準備」で、それから〇・三五秒後にようやく「動かそうという意志」をもち、「実際に手が動く」のはその〇・二秒後ということになります。そう、自分が意志をもつ〇・三五秒前に、脳はすでに動かすことを決定していたのです。
また、これとは別の、「左右どちらかのボタンを好きなタイミングで押す」という実験(*二)では、押す意志をもつ七秒も前に、脳波ではそのための準備が観測されていました。手首を曲げる、あるいはボタンを押すといった単純な作業を行う場合、私たちは自分の意志で行動を決定していると感じますが、実際には事前に脳が動き始めているようなのです。意志決定が脳による決定の後なのであれば、私たちが当然あると信じている自由意志は、錯覚にすぎないことになります。
バッティングで、さらに明らかに
これを野球でのバッティングで考えると、別の角度から証明できます。プロ野球で剛速球のピッチャーは、時速一六〇キロで球を投げますが、ピッチャープレートからホームベースまでの距離は、一八・四メートルしかありません。計算すると、ボールがピッチャーの手を離れてからホームベースに到達するまで、約〇・四秒しかかからないことになります。さらに、実際に打つかどうか判断するのは、ボールがピッチャーの手を離れた瞬間ではなく、もっと手前に来てからになりますから、脳の細胞間を電子信号が伝わる際に必要な連絡時間から計算すると、打とうという意志をもってからバットを振るのでは絶対に間に合わず、大きく振り遅れるはずなのです。
もちろんバッター本人は、「自分で判断して打っている」と感じているでしょうが、バッターがその意志をもつ前に、そのボールを打つか見送るか、打つとしたらどんな具合に打つかについて、脳は勝手に準備をし、体はすでにスイングを始めており、「打とうと意識的に判断して、その結果としてスイングしている」という感覚は、後づけの錯覚にすぎません(*三)。だからこそスイングは、ボールがホームベースに到達するタイミングに、かろうじて間に合うわけです。
もちろんこれは、常人離れした運動神経をもつ人が、練習を重ねてようやく到達できるレベルなので、私たち凡人では、たとえ「脳の準備や体の反応が先」であったとしても、完全に振り遅れてしまうわけですが。
私たちの思考にも自由意志はない
自由意志の欠如は、ここまで述べてきた「動作」だけではなく、私たちの「思考」にもあてはまります。記憶に関係している脳の部位「海馬」に細い電極を刺して、神経細胞の活動を調べてみた実験では、何かを思い出して意識にのぼる一・五秒前に、それに対応する神経細胞がすでに活動を始めていることがわかりました。これは、物事を思い出す場合でも、自分の意識より脳の活動の方が先に始まっていることを意味します(*四)。
脳が思考材料として何を送るのか決定した後に、意識が何かを思い出すのであれば、「自分の意志で思い出している」との感覚も錯覚ということになります。しかし、考えてみればこれは当たり前の話で、外界から目、耳などの感覚器を通じて新たな刺激があったわけでもないのに、脳が何らかの活動を行ったのであれば、それを生み出す元となった脳内部の活動が存在しなければなりません。止まっているビリヤードの球が、何の刺激もないまま動き出したりはしないのと同様、決断という脳内の活動が、何の前触れもないまま、いきなり電子信号として生じることはなく、事前に、その源流となる動きがあったはずのです。
思考における自由意志についてもうひとつ、興味深い研究を紹介しましょう。イタリアの都市ヴィチェンツァで、当時、盛んにその是非が議論されていた、アメリカ軍基地を拡張する政策について、住民一二九人に協力してもらい、実験をおこないました(*五)。
被験者には様々な映像や単語が現れるモニターを見てもらい、それが「良いもの」だったら左ボタンを、「悪いもの」だったら右ボタンを押してもらいます。流れてくるものの中には、アメリカ軍基地に関係した写真も紛れこませてあり、これによって、被験者が無意識の中でアメリカ軍基地についてどのような感情をもっているか、実験を行う側はあらかじめ知ることができます。
その結果、たとえ被験者本人が、「まだ賛否を決めかねている」と感じていても、最終的にどちらを選択するかは、モニター試験での「好き嫌い」の結果から、高確率で予測できることがわかりました。つまり、今までの実験同様、本人は自由意志で賛否を決したと感じていても、事前に脳内で結論は出ていたのです。
脳のゆらぎが行動や思考を決める
では、自由意志に代わって僕らの行動や思考を決定づけている、脳の「上流」の活動とは何なのでしょうか。実は課題や刺激のない安静時であっても、脳の神経回路内部には自発的な活動があり、「内発活動」あるいは「自発活動」と呼ばれています。これらの活動は強くなったり弱くなったり、あるいは神経細胞同士で動きが一致したり、バラバラになったりという具合に、常にゆらいでいて、この「脳のゆらぎ」こそが、後に続く活動を決定づけているようなのです。
ある実験(*六)では、被験者の脳の状態をMRIで測定しながら、計八〇回、合図とともにレバーを握ってもらい、それぞれの回での握り方の強さを測定しました。すると、その瞬間の脳のゆらぎが、握り方の強さを高確率で決定づけていることがわかりました。
また、それとは別の、海馬の神経細胞へ電気刺激を繰り返した実験(*七)では、電気刺激自体は毎回同じものであっても、そのたびに反応する神経細胞の組み合わせが異なることが判明しました。たとえ与えられた条件は同じでも、ちょっとしたタイミングの違いで、脳がはじき出す結果が違うものになるのであれば、やはり、決定は自分の意志ではなく、脳のゆらぎによってなされていることになります。
脳のゆらぎによる支配力は決断にとどまりません。暗記テストの実験では、正解、不正解といった結果は、それぞれの問題の難易度より、その単語を暗記する直前の脳のゆらぎが与える影響のほうが大きく、単語を提示する約二秒前には脳活動の違いによって、正解するかどうか予見できたのだそうです(*八)。ちなみに私たちの脳の働きの大半が脳のゆらぎで、その消費エネルギーはなんと脳全体の八〇%を占めるとされています(*九)。
もちろん、ゆらぎは自分の脳内で生じているのだから、自分自身のものである事実に変わりはない、と強弁することもできます。しかし、ここではっきり押さえておかなければならないのは、私たちは自分自身の脳のゆらぎに意図的にアクセスすることはできないし、意識してコントロールすることもできない、という事実です(もしできたら、さきほどの暗記テストは全問正解でしょう)。つまり、決定が脳内で行われているのは間違いなくても、私たちがまるで脳の管理人のように状況を支配しているわけではなく、実際の決定機関は私たちがいつも管理人のように感じている自分自身(これを今後、『自我』と呼びます)からは、見ることも感じることもできない、隠れた場所に存在することになります。
すべてのことを執り行っているのは、大脳が生成した意識ではなく、無意識的な脳のゆらぎと、体を介した外界からの刺激という、二つの要素による相互作用であり、意識できる脳の部位がその流れに「たまたま」関与したとき、私たちは自分がしようとしていることに気づき、同時に、自分が決定したとの錯覚が生じるわけです。
――行動や思考は自我のあずかり知らぬところで、いつの間にか決定されている。
そう、どうやら、あなたに自由意志はないようなのです。これで一歩、無我に近づきましたね。
見た映画で行動が決まる
さらに、進化心理学の分野では、私たちの脳は「モジュール」的な構造をとっているという考え方が一般的になってきました。モジュールとは、互いに異なった思考回路をもつ様々な部位を指し、それぞれが特定の機能に特化した情報処理を行っています……と定義から入ると小難しくなってしまうで、ここで具体的な研究例を挙げて説明しましょう。
心理学者ケンリックとグリスケヴィシウスは実験で、ホラー映画「シャイニング」か、ロマンス映画「ビフォア・サンライズ」からとった一場面を、被検者に見てもらいました(*一〇)。その後、どちらの映画を見たグループにも、ある美術館を宣伝する二種類の広告のうち一方を見せます。一方の広告のうたい文句は「毎年、一〇〇万人以上が訪れる」で、もう一方は希少性をアピールした「比類なき場所」というものでした。
すると、事前に「シャイニング」を見ていた人は、一つ目のうたい文句が流れたときのほうが、美術館に好印象をもちました。おそらく、恐怖におびえているときに希少性のアピールは効果的ではなく、多くの人がいる場所のほうが安全な避難所に見えたからでしょう。一方で、「ビフォア・サンライズ」を見ていた人は、反対の反応を示しました。ロマンチックな気分のときは、ふたりきりになれる環境に気持ちが傾いたものと推測できます。これをケンリックとグリスケヴィシウスによる七種類の代表的なモジュール、すなわち自己防衛、配偶者獲得、配偶者保持、協力関係(友人をつくり維持する)、親族養育、社会的地位、病気回避に当てはめると、ホラー映画は被験者の「自己防衛」モジュールに、ロマンス映画は「配偶者獲得」モジュールに主導権を握らせ、その結果、反対の行動を選択させたと説明できます。
モジュールの大体の意味合いがご理解いただけたでしょうか。心の主導権がモジュール間で受け渡される様子を察知することはできないので、私たちは自分ではコントロールすることも、気づくこともできないまま、ちょっとした条件の違いで、異なった結論を導き出してしまうのです。このようにあらかじめ受けた刺激によって、その後の行動や判断が影響を受ける現象はプライミング効果と呼ばれ、心理学分野ではよく知られています。
性的刺激で移り変わる支配モジュール
別の研究(*一一)では男性を対象に、調査票に挙げられた様々な項目があなたにとってどの程度重要か、五段階で評価してもらいました。その際、女性もいる部屋で回答した男性もいれば、全員が男性だけの部屋で回答した男性もいます。すると、女性がいる部屋に割り当てられた男性のほうが、「活発な交際生活を送ること」、「肉体的に魅力的と思われること」、「金持ちになること」、「名声や社会的地位を得ること」といった項目をより重要視したことがわかりました。女性が部屋にいるだけで社会的野心が一時的に増すとは、男とはなんと単純な生き物なのでしょう、と嘆きたくもなりますが、これも本人は気づかぬまま、配偶者獲得モジュールが主導権をとった結果と考えれば合点がいきます。
男性の性に関しては、もっとショッキングな報告もあります(*一二)。マサチューセッツ工科大学の数十人の男子学生を募って、ある被験者には通常の状態で、他の被験者にはエロティックな本を見せ、興奮させた状態で性に関する質問に答えてもらいました。すると、
「十二歳の少女に自分が惹かれるところを、想像できますか?」 という質問にイエスと答えたのは、通常の状態で二三%、興奮した状態では四六%で、
「可能なら、セックスする同意を得やすくするために、女性にこっそりとドラッグを飲ませますか?」
という質問には、通常の状態では五%でしたが、興奮した状態では、なんと二六%がイエスと答えました。性に対する低モラルのモジュールは、性的興奮時において、犯罪に対する懲罰を避けるべく設計されている視野の広いモジュールより、優位に立つようなのです。
余談ですが、筒井康隆の短編コメディー小説に「欠陥バスの突撃」という作品があります(*一三)。これは、情事に及ぶ際の男性の脳内世界を描いたもので、内容がまさに性的欲望を巡る「心のモジュール性」そのものなのです。一九七〇年に発表されたものですから、モジュールの概念が出てくるずいぶん前ということになり、その先見性には今更ながら驚かされます。とてもおもしろい小説ですので、興味が湧くようならご一読ください。
あるのは多数のモジュールだけ
ここからはロバート・クルツバン著「だれもが偽善者になる本当の理由」(*一四)の力を借りて、心のモジュール性について整理しましょう。 人間の脳は、互いに違う信念をもつ様々な部位に分割されています。これら無数のモジュール(クルツバンはさきほど紹介した七種類のモジュールより、はるかに多くのものを想定しています)の全体を代弁する何かがあれば、それが「自我」ということになりそうですが、そのような管理者然とした機関は存在しません。それどころか、脳のモジュールは時代の流れとともに徐々に多層化してきたものと考えられており(モジュール化したほうが効率がいいため、進化の過程で優位に立てました)、モジュールとモジュールの間で情報をやりとりできることは少ないようです。
いくつかのモジュールは意識をもつものの、多くのモジュールは意識をもたないまま、それでも潜在的に重要な役割を担って、感覚器官から入力された情報を処理したり、意志決定を下したりしています。手首を動かすときにも(この章の最初で紹介した、リベットの実験を思い出してください)、いくつかのモジュールが関わり、それらモジュールの連鎖のなかで、最初に関係した「意識に結びついた」モジュールが、「手を動かすという決断をした」との感覚をもたらし、その時点で自由意志の錯覚が生じるわけです。 クルツバンはこう述べています。
脳が独自の機能をもつ多数のモジュールによって構成されるのなら、また、それらのうちの少数のみに意識が備わっているのなら、それらのうちのいくつかを、「真の自分、自我」として考えるべき理由は特にないでしょう。
自我は、私たちが常日頃感じるほど、大きな采配を振るっているわけではありません。自分自身を管理するような確固たる自我はなく、しいていうなら自我とは、全人格の一部にすぎず、多くの側面をもち、状況に応じて簡単に変わるが、自我自身ではそれに気づくことができず、それなのに自分の支配力や決定権に絶対的自信をもつという、なんともお茶目な錯覚、といったところでしょうか。
――私たちが、当然のように「ある」と感じている自我など存在しない。
そう、ブッダが二五〇〇年前に説いた「無我」が、近年になって科学的に証明されつつあるのです。
脳の障害でわかった作話癖
「無我についてはなんとなくわかったけど、なんで私の自我はそんな奇妙な建てつけになっているんだろう?」
そう疑問に感じている人も、多いことでしょう。
ここから先は、「無我」の証明に必ずしも必要ではないのですが、その疑問がすっきりしないことには、ここまでの科学的知見が腑落ちせず、騙されたような気分になってしまいかねないので、さらにテーマを膨らませて、自我がもつ不可思議な振る舞いの謎に迫っていきます。
まずは、私たちが日常的に行っている「説明」について。何といっても有名なのは、一九六〇年代に行われた、「分離脳」での一連の実験でしょう。当時、重度のてんかん発作を抑制するため、左脳と右脳をつなぐ繊維の束(脳梁)を切断する手術が行われており、実験はその治療を受けた患者を対象に行われました。
大多数の人では、言語をつかさどる大脳皮質の部位「言語野」は、左脳にあることがわかっています。右脳と左脳は、それぞれ左右を交差して体をコントロールしているので、文字や写真を左視野に提示すると右脳だけで処理され、脳梁が切断された分離脳では、左脳に情報が届きません。例えば右視野、すなわち左脳側に「ペン」という文字を見せれば、患者は意味をしっかりと理解します。しかし左視野、すなわち右脳側に「ペン」という文字を見せても、左脳にある言語野には情報が届かないため、患者は「何も表示されていない」と答えます。
ところが、さまざまな文房具を患者の前に並べてみせると、きちんと(右脳にコントロールされている)左手で、ペンを選び取ることができます。言語野ほどの機能はないけれど、右脳も無意識レベルではある程度まで言語を把握できるため、自分ではその理由がわからないまま、正答を選ぶことができるわけです。
これだけでもずいぶん不思議な話ですが、さらに興味深いことに、右脳が起こした行動について左脳に説明させると、左脳はもっともらしい話を作り出します。しかも本人は、完全にでっち上げであるその話を、真実だと信じきっているのです。
実際の実験(*一五)をひとつご紹介しましょう。ニワトリの足の写真を患者の左脳に、雪景色の写真を右脳に見せた後、左右の視野に何枚かの写真を見せ、前に見た絵と関連するものを選んでもらいます。すると左手は(雪景色に対応する)ショベルの写真を、右手はニワトリを指しました。次に、それらの絵を選んだ理由を話してもらうと、左脳の言語野は「簡単ですよ。ニワトリの足だからニワトリにしたんです」と説明しました。左脳は実際にニワトリの足を見ているので、言語によって正確に説明できるわけです。
さらに、自分の左手がショベルの絵を指していることについても、なんのためらいもなく言いきりました。
「ニワトリ小屋のふんを片づけるには、スコップを使いますからね」
そう、左脳はなぜ左手がショベルの絵を選んだかわからないまま、無理やり理由をこしらえたのです。左脳が見たのはニワトリの足だけで、雪景色のことは知りません。それでも説明をしなくてはならないので、左手の選択を、自分がもっている情報に沿う形で解釈したわけです。
「ニワトリはそこら中にふんをするから、ショベルが必要」というのは、理屈としては筋が通るものの、もちろん完全な作り話。しかし患者自身は、自分の説明がでっち上げであることにまったく気づくことなく、真実を述べたつもりでいます。
分離脳の次は、脳の海馬が損傷され、記憶ができない患者での実験(*一六)。担当医が握手をするときに、手に小さな電気ショック機を隠しておいて、患者をビリビリと刺激しました。すると患者は、「何をするんですか」と怒るのですが、海馬の損傷のため、記憶は数分で消えてしまいます。しかし、記憶が消えたとしても、脳の別の部位で保管されている「感情」は残るため、医師が再度握手をしようとすると、拒否反応を示します。
そこで医師が、「どうして握手をしてくれないんですか」と質問すると、患者は、「手を洗っていなくて、汚れているから」と、実際とは違う返答をしました。記憶の根拠を自分がアクセスしやすい記憶、すなわち、「手を洗っていなかった」というものに落とし込んで、理由を作りあげてしまったわけです。これも、本人は大真面目。
私たちが信頼している「自我」には、根も葉もない嘘をつき、かつ、周囲のみならず自分自身をも欺くという、とんでもない側面があるようなのです。
脳は問われると作話する
「それは分離脳や海馬損傷といった、特殊な状態にいる人だからじゃないの?」
という疑問を感じている人も多いことでしょう。そこでここからは、一般的な脳の持ち主を被験者とした知見を紹介していきます。
まずはニスベットらによる有名な実験(*一七)。被験者には、一列に並べられた、まったく同じ四本のパンティーストッキングを見比べてもらいます。被験者たちに、それらがすべて同じ製品である事実は隠したまま、もっとも気に入った品を選んでもらったところ、一番右側に置かれているパンティーストッキングを選ぶ傾向があることがわかりました。つまり、置かれた位置が選択に影響を及ぼしたのです。しかし、分離脳患者と同じように、被験者は自分たちがした選択の真の理由(右側にあったから!)を説明することはできず、その代わり、色や手触りなど、品質の違いを指摘しました。四本のパンティーストッキングは、いずれも同じものであったにもかかわらず、です。被験者たちが述べたもっともらしい理由の数々は、完全な作り話ですが、やはり本人は正直に語っているつもりでいます。
次はスウェーデンで行われた、なんともお茶目な実験について(*一八)。研究者たちは二人の女性の顔写真を被験者に提示し、どちらの顔をより魅力的だと思うか尋ねました。その後、ときどき、研究者たちは被験者にばれないよう上手に二枚の写真をすりかえて、選ばれなかった、すなわち好みではなかった方の顔写真を見せながら、「なぜ魅力的と感じたのですか?」と理由を聞きます。そのときの説明の内容(長さ、煩雑さ、流暢さ)を分析してみると、写真をすりかえられた場合と、すりかえがなかった場合とで、まったく違いがありませんでした。身に覚えのない選択の説明を求められ、はたと立ち止まるどころか、おかしなことには何も気づかないまま、平然と逆の立場を弁護してみせたわけです。もちろん、被検者たちの脳梁は切断されていません!
写真をすりかえられた被検者が口にする正当化には、後づけなのが見え見えである場合もありました。
「この女性を選んだ理由は、すてきなイヤリングと、クルッとした髪ですね」
そう述べた被検者が実際に選んだのは、なんと、髪がまっすぐでイヤリングをつけていない女性の写真でした。この説明が、最初の意志決定の本当の理由でないことは明らかです。
自分が覚えていない記憶を補おうとしたり、誤った記憶をつなぎ合わせたりして、無意識に話を創作することを「作話」といいます。脳は理由を問われると、このように作話します。しかも、でっち上げたその理由を、本人は心の底から、「本当の理由」だと思い込んでいるのです。
辻褄さえ合えば何でもあり
この研究グループは、他にもユニークな実験をしています(*一九)。総選挙前、被検者たちに左派政党、右派政党のどちらに投票するつもりか尋ねた上で、所得税率や医療体制といった、選挙での主要な争点についての質問票を手渡しました。研究者たちは今回も巧みなトリックで、回答用紙を逆の政党を支持しているかのような内容のものとすり替えます。これによって、左派政党支持の有権者は、所得税を下げるとか、民間企業の医療参加を促すといった政策に賛成する旨の回答書が手渡され、右派政党支持者は、福祉給付金の拡充などに賛成する回答を受け取りました。
すると――おそらく賢明な読者諸君はすでに予想しているでしょうが――すり替えの大部分は気づかれず、それどころか、支持していないはずの政治的立場を喜んで説明し、擁護したのでした。
スウェーデン人って適当ですね。これだから高福祉国家は……という話ではもちろんありません。先ほど、イタリアでのアメリカ軍基地の是非を問う実験で、その人の好き嫌いを調べておけば、本人が最終的にどちらの支持に回るかを高確率で予測できる、すなわち、無意識レベルではすでに心に決めているとの実験結果を紹介しましたが、この場合でも、最終的な決定理由を尋ねると、「現在のイタリアやアメリカの政況を考えると……」などと、自信満々に理由を創作し、かつ、本人はそれが本当の理由だと確信していたそうです(*二〇)。
「ずいぶん前から答えは出ていました。単なる好き嫌いです」
そう答えられれば、自分の脳の動きをきちんと観察できていることになりますが、一部の例外を除き、そのように話せる人はほとんどいません。決定は自我から見えない部位で行われているため、その過程に気づくことすらできないのです。しかし考えてみると、主に女性によって使われる、「生理的に無理」という言い方は、まさにこの例外に当たるのかもしれません。「生理的に」などと言われると周囲は、「嫌なら嫌で、理由をちゃんと説明しなきゃ」と思いがちですが、「具体的な理由は浮かびませんが、脳が拒絶しているのです」という意味なのであれば、下手に理由を述べるより、よほど正確に脳の決定系統を描写しているのかもしれませんね。
と、余談はさておき、左脳にある言語野は最小限の情報量にもとづき、外の世界を理解するように設計されています。どんな小さな点をも利用して、それらをひとつの物語に織り上げるよう働くのです。さらに散々例を上げてきたように、実際のデータに空白があると、その空白を埋めてしまったり、ひとつの話をつくる過程で、シナリオの代替案を用意したりといった、天才的な能力までもっているとされています。左脳の言語野にとっては、辻褄が合うことが最優先で、真相は二の次なのです。
もちろん、これはあなたも当てはまります。人から理由を聞かれれば、真実を話しているつもりで見解を述べるでしょうが、それは往々にして作話、すなわちでっち上げで、本当の理由は単なる好き嫌いだったり、脳神経回路の上流で、たまたまそのタイミングで起きた「脳のゆらぎ」にすぎなかったり、あるいは、ちょっとしたきっかけで主導権を握っただけの、意識と結びついていないモジュールの仕業だったりするわけです。
どうでしょう? 自分の管理者たる「自我」の存在に、さらに否定的になったのではないでしょうか。それに、なぜ私たちは作話などという、あまり意味がなさそうな行動をとってしまうのか、不思議になってきませんか。そう、先ほど述べた「自我の建てつけの奇妙さ」が、ここでさらに際立ってきましたね。
ここからは、さらに深掘りして、私たちが行う「自己への過大評価」についてお話します。普段、あまり耳にしないような知見を立て続けに聞いて、頭の整理が追いつかず、まるで迷宮に入りこんだかのような不快感を覚えている人もいるかもしれませんが、それはひょっとして、「自分には自由意志がある」という洗脳プログラムが、真実を受け入れないよう抵抗しているのかもしれません。結論も近づいてきましたので、できるだけ頭を柔軟に保って、もう少しだけおつき合いください。
自分は偉いという錯覚
私たちがいかに自分を過大評価しがちであるかについては、膨大な数の論文がありますので、ここでは代表的な研究を淡々と紹介していくことにします。 まずは古典的なもので、入院を要するほどの事故に巻き込まれた、自動車の運転手五〇人(そのうち三分の二は加害者側)と、事故歴のない五〇人とを比較した研究(*二一)。事故を経験した五〇人の多くは、自分の運転技術が全体の分布のなかで「熟練者」の方の端に近いと考えており、安全な運転者たちと自己評価の高さは変わりませんでした(もちろん警察の報告書とは、かなり異なります)。
運転に関しての他の研究(*二二)でも、アメリカ人の九三%が「自分は平均より熟練した運転者」であり、四六%は「上位二〇%に入る」と考えていました。運転の能力のように、数値化しての比較が難しい分野では、自己評価ものびのびと高まっていくようで、見事な自己肥大ぶりがみてとれます。
次に教育に目を向けると(*二三)、大学教授のうち九四%が「自分は平均的な同僚の教授たちよりも優れている」、六八%が「自分は上位二五%に入る」と考えており、これまた全然計算が合いません。さらに、四人共同で執筆した学術論文の著者たちに、自分の貢献度がどのくらいを占めるかを個別に見積もってもらったところ、貢献度の合計は平均して一四〇%になってしまいました(*二四)。各自が本来あるべき数字を述べた場合と比べ、四〇%も超過したことになります。
しかし、これらの実験結果について、疑い深いあなた(あるいは、あなたの脳のゆらぎ)は、
「大学教授や研究者には尊大な人が多いからね。『先生、先生』と持ち上げられていると、つい自己評価が上がってしまうという、特殊なケースでしょう」 と考えているかもしれません。そこで、一〇〇万人の高校生を対象にしたアンケート(*二五)も紹介しておきます。結果は、七〇%以上が「自分の指導力は同級生たちに比べて平均以上だ」と考えていて、平均以下と自己評価した人は、わすか二%にすぎませんでした。能力における過大評価は、若い層でも同様であることがわかります。
では、道徳心ではどうでしょう。研究(*二六)によると被験者たちは、「自分は他人より良い行動が多く、悪い行動は少ない」と考える傾向があり、その度合いは、「知的、あるいは知的でない行動について」より大きくなりました。つまり、話が道徳的立ち居振る舞いになると、知性において感じているときと比較し、自己評価の過剰ぶりがさらに際立つというのです。
なお、日本人を含む東洋人と西洋人とを比較した研究(*二七)では、東洋人は西洋人と比べ、個人主義的な側面では自己肥大の傾向は低いものの、グループへの忠誠心といった集団主義的な美徳においては、より肥大する傾向があることがわかりました。それぞれの集団で、より重要視される分野で自己が肥大しやすいというのも、興味深い話です。
最後に、見た目についてはどうでしょう? 被験者に顔の写真を何枚か見せ、自分のものを特定させた実験があります(*二八)。提示される写真には本当の顔写真に加え、それをより魅力的に、あるいは醜く見えるよう加工されたものも含まれています。その結果、被験者は魅力的に加工された写真を、自分のものとして特定する傾向がみられました。残念ながら、あなたは自分で思っているほど素敵なルックスではないのかもしれません。
何はともあれ、このように自分への過大評価は、様々な分野に及んでいることがわかります。
自我の役割は「印象操作」
ここで一旦、これまでの話の流れを整理しましょう。まず前半では、リベットによる意思決定についての実験や、脳のゆらぎ、モジュール性、さらに作話についての研究を紹介し、自我は私たちが普段感じているほど、しっかりと自分自身を掌握しているわけではないことを、遠慮なく言わせてもらえば、私たちに自由意志はなく、決定は自分では意識できない脳内のどこかで勝手に行われ、自信満々に開陳する理由の数々も、えてしてとんだ作り話であることを示しました。それなのに私たちは、確固たる自我があるという、大きな錯覚に陥っています。
さらに最後の部分では、私たちが自分自身を現実より有能で、かつ道徳的だと勘違いしていることを示しました。これも新たなる錯覚です。このようは激しい錯覚が、なぜ二種類も存在するのでしょうか。実はこれは、「周囲の人たちに、より信頼してもらうため」と考えると辻褄が合います。
もし、あなたが行動の理由を聞かれるたびに、「理由なんかない」、「自分ではわからない」と答え続ければ、それが脳内の決定を正確に表現しているにもかかわらず、周囲の人たちはあなたを、「信用するに足りない人物」とみなすでしょう。逆に、あなたが自分自身を優れ者だと宣伝するだけでなく、本当に平均以上なのだと信じこんだ上で、嘘八百を交えながらアピールすれば、説得力が増して、集団内での地位向上に役立ちます。「敵をあざむくには、まず味方から」といいますが、さらに一歩踏み込んで、「味方をあざむくには、まず自分から」というわけです。
長い歴史の中で、私たちホモ・サピエンスが生き残り、私たちより脳が大きく、筋肉質だったとされるネアンデルタール人が絶滅した理由のひとつは、集団の大きさにあったとされています。ネアンデルタール人は親族を中心とする小集団だったのに対し、ホモ・サピエンスは大きな集団で、協力し合うことにより獲物を捕らえ、結果として今日まで生き残ることができました。このように集団を形成することで、個体としての生存率や繁殖率が向上する現象はアリ―効果と呼ばれ、人間以外の生物でも幅広く認められます。
親族以外のメンバーからも受け入れてもらうには、自分に価値があることを示す必要があったでしょうし、能力がなかったり、協調性が足りなかったりして集団を追われた場合、ひとりで生き残るのは困難であり、ましてや、子孫を残すことなどできなかったでしょう。「理由なんかない」と脳内の決定経路を正確に述べることができる、つまり錯覚に乏しい個体の遺伝子は、淘汰されていった可能性が高いのです。
さらに私たちは、自分が口にしたライバルの悪い評判を信じてしまう傾向があります(*二九)。これも、自分自身が信じているほうがそれを広めやすく、ライバルを蹴落とすことによって、集団内での地位を相対的に向上させ、自らの遺伝子を残しやすくする効果がありそうです。
以上を考え併せると、我々の自我は、集団にとってより有能であると宣伝することを目的とした機関にすぎず、自分をも完全に欺き、管理者として万能感を抱かせることによって、その宣伝機能を強化しているだけの存在ということになります。自我のもつ、進化・淘汰における勝者としての横顔が浮かび上がってきましたね。私たちを導く感覚や思考は、現実を正確に伝えることを目的として築かれたものではなく、祖先たちが生き残り、子孫を残すために役立ってきたにすぎないなのです。
人類学者のジェームズ・バーコウは言いました(*三〇)。
自我の主な進化上の役割は、印象操作機関になることだといっていいでしょう。
こう考えれば、自我が複雑で巧妙、かつ不可思議な構造をとる理由を合理的に理解することができます。
とはいえ、本書のテーマに戻れば、そこまで完全に納得してもらう必要はありません。自我の建てつけがあまりに奇妙なため、その進化上の役割まで説明しないことには、どこかで騙されたような感触が残るのではないかとの危惧から、議論の対象を自己への過大評価まで広げましたが、自我が印象操作機関にすぎないという説を――たとえ説得力はあるにせよ――科学的に証明することは困難です。しかしブッダが説いた「無我」の部分、すなわち、自分たちが感じるような確固たる自分など存在しないのだと、すでに科学的に証明されていること、そして、その理由を進化心理学の観点から論理的に説明しうるというところまでは、これでしっかりと納得いただけたのではないでしょうか。
再三にわたり述べてきたように、あなたに自由意志はなく、自由意志と勘違いしているものは、ほぼすべてが錯覚であり、決定したという感覚をもつ前に、すでに脳のゆらぎ、あるいは意識と結びついていないモジュールによって決定されています。正直に語っているつもりの理由も、脳の言語野が無難なラインでまとめ上げた作り話にすぎません。あなたの管理者たる自我は存在せず、すべてが脳の進化過程で巧妙化していった錯覚であり、幻想なのです。
どこまでが自分の体?
「自分はこうして存在している。あきらかに周囲とは異なった個体だ。脳の働きだけで無我といわれても、やっぱり納得はできないな」
というように、肉体、あるいは物質的角度から疑問を呈する人もいるかもしれません。これに関しては、
「確かに、あなたという肉体は存在するけれど、管理者然とした自我が錯覚なのですよ」
との説明で終わりにしてもいいかもしれませんが、せっかくなのでもう少し踏み込んで、物理的独立性についても検討してみましょう。
そもそも、どこまでがあなたの体で、どこであなたの体ではなくなるのでしょうか。髪の毛はどうです? 自分の一部と感じている人が多いですが、髪の毛の先は生えている状態であっても、すでに死んだ細胞の集まりにすぎず、これは皮膚表面の角質も同様です。死んでいたって自分だというのであれば、髪を切ったらどうでしょう。あるいは垢すりタオルでこすった後、タオルに付着した角質は? それは自分の一部ではないとするならば、自分の概念は細胞の生死に関わらず、体とつながっている点にあることになります。その場合、歯の詰め物はどうでしょう。しっかり体と繋がっているし、咀嚼機能に貢献もしていますが、自分の一部とは感じにくい気がします。
食事中、口の中で咀嚼している食べ物は、もちろん自分の一部ではないでしょうが、飲み込んで胃に収めた瞬間に、自分の一部になったと感じる人もいるかもしれません。しかし、ならば出る直前の便も自分かといわれれば、首を傾げたくなりますよね。実は、胃や大腸といった消化管内部は、解剖学的には体の外側に位置づけられています。人間の体はちくわのように、本体の内側に消化管という空洞がある構造になっているのですが、日常生活で空洞内を覗き見る機会がないせいか、消化管の中も自分の体内だと感じている人が多いようです。
では、腸内で消化や吸収を助けてくれる約一〇〇〇種類、一〇〇兆個の腸内細菌はどうでしょう。これらを自分の一部だと考える人は少ないでしょうから、健康上は必要がなく、すでに死んでいて、かつ容易に体から切断できる髪の毛先や角質は自分で、健康に不可欠であり、容易には除去できない腸内細菌は自分ではないことになります。
「自分のDNAを有しているかどうかが決め手」と考える人も多そうですが、先ほど例示した、多くの人が自分の一部と感じる髪の毛のうち、DNAが存在するのは皮膚の中に埋もれている毛根部分だけで、先端部分はDNAを含みません。逆に、普通は自分の一部とみなされない歯石は、唾液中に含まれるカルシウムやリンが歯垢と結合してできたものなので、DNAを含みます。よってDNAを基準にすると、毛先は自分ではないが歯石は自分ということになり、これも妙な感じです。
また、各細胞内に一〇〇~二〇〇〇個含まれるミトコンドリアは、元々は別の生物であったものが、体の中に取りこまれるようになったと考えられており、自分のDNAとは別の配列を有している上に、勝手に増殖します。DNAで区別するのであれば、私たちは自分には属さない三七〇〇兆〜三京七〇〇〇兆個もの生命体を、体中の細胞内に抱えていることになるのです。
これらの視点から考えると、私たちの体の定義は必ずしも明確ではなく、特に機能面で考えれば、相当数の別の生命がいて初めて成り立っていることがわかります。自分の体は自分そのものではなく、いろいろな生命がドラマを織りなす舞台と捉えることもできそうです。まるで、地球がそうであるかのように。
体は分子の淀みにすぎない
次に体の組成をみてみましょう。一九三〇年代後半、ルドルフ・シェーンハイマーは窒素の同位体(アイソトープ)である重窒素を追跡子(トレーサー)として用い実験を行いました(*三一)。実験用ネズミに重窒素で識別されたロイシンというアミノ酸を含む餌を与えたところ、重窒素のうち約五七%が、体のあらゆる部位で、体を構成するタンパク質の中に取り込まれていることがわかりました。エサは車にとってのガソリンのように、体を動かすためのエネルギー源として体内で燃やされるだけではなく、それまで体を構成していた物質と置き換わり、新たに体の一部になっているのです。
私たちの体のうち、生え変わる様子を観察できる爪や、髪の毛だけではなく、全身のあらゆる臓器で、このような入れ替わりが起きています。全体の半分の成分が入れ替わる時間を半減期といいますが、その長さは肝臓では二週間、赤血球は一二〇日、筋肉は一八〇日といわれ、数年あれば体のほぼすべてが入れ替わっていることになります。つまり、純粋に物質としてみた場合、数年前のあなたと今のあなたとでは、完全に別の個体なのです。たとえ川はずっと同じ場所で流れていても、中の水は常に入れ替わっているのと、似たようなものと考えていいでしょう。
これらの知見を踏まえて、生物学者の福岡伸一は「動的平衡」という概念を提唱しました(*三二)。肉体について、私たちは自らの感覚として、「外界と隔てられた個体」としての実体があるように感じていますが、分子レベルでの様子は大いに異なっていて、細かく観察すれば、生命体はたまたまそこで密度が高まっている、「分子のゆるい淀み」でしかありません。最終的に恒常性が保たれてはいるものの、その空間で淀んでいる分子は高速で入れ替わっており、この流れ自体が「生きている」という概念の正体となります。
なのに、なぜ私たちは自分という確固たる肉体的存在があるように感じるのでしょうか。それは理屈抜きで、自我がそう感じているからにすぎません。そう、あの錯覚と欺瞞だらけで、大噓つきの自我が、です。
どうやら、あなたはいません
神経解剖学者のジル・ボルト・テイラーは、かつて自分自身が先天性の脳動静脈奇形によって脳卒中を起こし、左脳にある思考中枢や言語野の機能が失われたときの状態を次のように表現しています(*三三)。
「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ個体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている! わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のなかで振動する原子と分子からできているわけですから。言語中枢の中にある自我の中枢は、自己を個々の、そして個体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。つまるところ、わたしたちの全ては、常に流動している存在なのです。
「それって、死にそうになったときに見る走馬灯のような幻想じゃないの?」 と思われる方もいるかもしれないので補足しますと、テイラーは八年のリハビリを経て完全に復活した今も、左脳の「肉体をもつ一人の個人」から離れて、右脳の「宇宙の生命力であり、すべてのものと一体化している自分」に戻ることができるとのこと(*三四)。生命体は、たまたまそこで密度が高まっている「分子のゆるい淀み」でしかないとの言説は、頭でっかちな学者による机上の空論ではなく、錯覚と捏造が得意な左脳さえ沈黙すれば、実際に体は流体として感知されるようなのです。
思考をつかさどっているのは左脳であり、言語野や思考中枢が織りなす解説を私たちは真実だと思いこんでいますが、左脳の見せる世界を安易に信用してはいけないことは、ここまで紹介した数々の知見が指し示す通りです。脳が紡ぎ出す世界は、自作自演の映画にすぎません。私たちはそれを「本当の世界」だと錯覚し、ストーリーにどっぷりと浸りながら生きているのです。そう、まるで映画「マトリックス」のように。
以上で、無我に関する知見の紹介は終了です。あなたが自分の管理者として感じている自我が幻想であるだけでなく、あなたの肉体という物理的存在も、自我がそう囁くような、境界線のはっきりしたものではないことがおわかりいただけましたでしょうか。
――ええ。あなたは、いません。
ここまで読んで、完全に「自分なんていうものはない」と確信した人もいれば、「自分という肉体までは否定できないが、自我はない」と感じている人、あるいは、「肉体もあるし自我もあるけど、自分で想像していたような絶対的なものではなく、実態はかなり限定的」という印象に留まった人もいることでしょう。その、いずれでもかまいません。今まで何ら疑問に思うことなく絶対視していた自分という存在の怪しさを、理屈の上で理解できているようなら、悟りへの第一関門は無事通過となります。ここで気を緩めることなく、本章で得た知見をしっかりと頭に刻みながら、悟りの本番である次章にお進みください。
無我の理解を妨げる認知バイアス
逆に、「いろいろ引用しているけど、さっぱり説得力がない。私にはしっかりとした『自我』があるよ」という方は、一旦ここで終了、脱落ということになります。私の力が及ばず、申し訳ありませんでした。しかし、なぜ一部の方にとって、一連の科学的論文が説得力をもたないのか、その理由をこれまた科学的に、具体的には二つの認知バイアスから説明してみたいと思います。 まずは、自我の否定が苦痛を伴うから、というもの。今まではあると信じきっていた自我が、実は存在しないのだと理解しようとすれば、それによる強い心理的負荷に耐えなければなりません。私たちには無意識にそのような負荷を避けようとする傾向があり、「保守性バイアス(現状維持バイアス)」と呼ばれています。これまでの情報、信念、あり方などに固執し、新しい知見や変化に対応できないため、マイナスに働くことも多いのですが、反面、心の安定をたもつ効果があります。
特に社会的に成功している人は、今までの価値観を壊すことによって、せっかく築き上げた優位性が損なわれるように感じられるのか、この手の知見に否定的な傾向があるようです。しかし、悟りが経済的豊かさを無効化するとしたら、それは悟りが極限まで深まった状況においてのみであり、たとえ出家して生涯を修行に捧げたとしても、その境地に達することは困難でしょう。無我の理解は、社会的成功とは違う方向から、より深い幸福を加味していく試みであり、決して過去の努力をふいにするわけではありませんので、あまり頑なにならず、柔軟に構えてほしいところではあります。
あるいは、もっと単純に、「たまたま信じる気にならなかっただけ」という可能性もあります。「内山がそれらしく語る話なんて信じない」と判断したのは、あなたの考えているあなた自身ではなく、意志決定の上流にある脳のゆらぎや、あるいは意識と結びついていないモジュールであり、ちょっとしたタイミングや状況の違いだけで、まったく違う結果がもたらされることは、散々述べてきたとおりです。であれば賛同も拒否も、基本的には「たまたまのタイミング」ということになりますが、ここまでの話を納得していない人は、そもそも、それらの研究結果を信用していないわけですから、この理由は説得力に乏しいかもしれません。
ちなみに、一度「信用しない」という結論に達してしまうと、その後は自分の先入観や仮説を肯定するために都合のよい情報ばかりに目がいく傾向があり、「確証バイアス」と呼ばれています。
人間にはこのような認知バイアスが備わっているため、無我といった一般的常識に反する言説は、なかなか理解されにくいという実情があります。だからこそ、これらの科学的知見がなかった時代では、無我の理解のために何年も瞑想修行に取り組む必要があったのでしょう。
人間観察で気づく、自由意志の欠如
人が一旦抱いた否定的見解を覆すのは確かに容易ではないのですが、あきらめてしまう前に、最後のひと足掻き。針の穴に糸を通すような話ですが、(もし興味があれば)いずれ、自我の欠如に目覚めるかもしれない方法をお伝えしておきましょう。それは、「自分ではなく、比較的親しい他人をじっくり観察する」というやり方です。
あなたの周囲で、少し前に自信満々に述べていた意見とは正反対の意見を、やはり滔々と話している人を目にしたことはありませんか。それは、ちょっとした状況の違いで、モジュールが入れ替わった結果なのかもしれません。 あるいは、友人との会話が誰かの悪口めいてきたとき、即座に、「あの人にもいいところがあるんだよ」と気色ばむ人が出てきて、他の一同がキョトンとするような場面は記憶にありませんか。考えてみれば、悪口という情報を得て、それが妥当なものか吟味し、結論を口にするまでには、ある程度の時間がかかるはずです。瞬時に反対意見が口をついて出るようなケースでは、たまたまそのタイミングで否定的な方向に脳がゆらいで反応し、その後で、「自分の考えで反対意見を述べた」と錯覚しているだけの可能性が高そうです。
その他にも例えば、自分が下した決定を説明するのに、客観的にみて、かなり無茶な理由を述べる人はいませんか。これは、脳のゆらぎが決めた結論に対し、左脳の言語野がうまく作話できなかったケースで、本当に、笑ってしまうくらい嘘っぽい理由を、しかし本人は大真面目に語ったりします。その時に「今の、作話でしょう?」などと指摘すると、本人は不愉快そうに否定するのですが、ちょっと時間を開けてから改めて尋ねると、「確かに。あのときは、なんでそんな理由を言ったんだろう」と首を傾げてしまうことも、まま、あります(その人が自分の過ちを認めるだけの、柔軟性のある性格であることが前提ですが)。
このように、本章で挙げられた知見がうまく当てはまるケースを、自分ではなく、周囲の人を観察することでチェックしてみてください。そうすれば、人々が自我によってではなく、まるで何かに操られるように語り、行動している様子を目の当たりにする機会があるかもしれません。
「周囲の人たちには、確固たる自我がなさそうだ」と感じるだけであれば、自分自身の自我を否定する場合と比べて少ない苦痛ですむため、正常化バイアスが働きづらく、結果として、すんなり受け入れられる可能性があります。
「確かに周りの人を観察していると、自由意志の有無に疑問を感じるな」 となれば、しめたもの。その後に、 「同じ人間なんだから、私だけ例外ってことはないよね」 と気づけば、バイアスによって強化された妄想も、ついに砕け散ることでしょう……と簡単そうに書きましたが、実際は、「自分も他人と同じように間違える」と認めるだけでも一苦労なんですけどね。なんといっても、「自分だけは特別」と心の底から過大評価するのが、私たちホモ・サピエンスのお家芸なのですから。
本当に「自我」はやっかいだなあ、と深く嘆いたところで、この章もお終いとなります。いよいよ、悟りを開くための瞑想へと進みましょう。
───悟り隊・隊長 内山直
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