一日で悟りを開く方法企画

一日で悟りを開く方法 <1章>

~私はこうして「悟りに科学を」と考えるに至った

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この章の内容は、私自身が坐禅瞑想を始めたきっかけから、悟りを開き、この本を執筆するに至るまでの経緯が大半を占めます。皆さんにとって、あまり興味がない話も出てくるかもしれませんが、ここで述べるいくつかのポイントは、本書の趣旨を理解してもらう上で重要なので、ぜひ目を通してください。

とはいえ、この後に続く第2章、第3章ほどしっかり読んで頂く必要はありません。肩の力を抜いて、気軽におつき合いいただければと思います。

アーリーリタイアした時の三つの目標

二〇〇五年、三六歳の頃、心理療法士・リチャード・カールソンによって書かれた啓蒙書(*一)で推奨されていたことをきっかけに、私は瞑想に興味をもつようになりました。本には、「あなたの地元にも瞑想クラスがあるはずだ」と記されていたので、念のため調べてみましたが、残念ながら(そして予想通り)ひとつも見つかりませんでした。当時の日本の地方都市で、瞑想に興味をもつ人はあまりいなかったようです。

そこで「瞑想」をキーワードに書籍を探したところ、南方仏教の一系統であるテーラワーダ仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラの著書(*二)がみつかりました。これが、私と仏教修行との出会いになります。当時は医師として脂の乗った時期であると同時に、私生活では第一子が誕生し、公私ともに忙しくしていましたから、瞑想は日々のストレス緩和にちょうどいいように思えました。

入手した指南本に沿って瞑想に取り組んでみると、なるほど、気持ちがすっきりするような気もしないではありません。しかし、その方面の才能に恵まれていないためか、どんどん禅定が深まっていくというような実感は生まれませんでした。忙しい生活の中、たいした手ごたえもないまま瞑想を続けるのは難しく、結局、日課にするまでは至りませんでしたが、それでも、気が向いたら一五分程度坐ってみるという程度の習慣はつきました。

その後、仕事は忙しくなる一方で、多大なストレスを抱え込んだ私は、第二次安倍政権での株高・円安にも助けられ、二〇一六年、四七歳の若さで自分のクリニックを後輩医師に譲り、アーリーリタイアします。まだ、FIRE(Financial Independence, Retire Early)という言葉が一般的ではなかった時代ですから、周りからはずいぶん驚かれました(その辺の経緯に興味がある方は、自著『幸せの確率―あなたにもできる! アーリーリタイアのすすめ(セルバ出版)』をご参照ください)。

アーリーリタイアするにあたり、私は自由な人生で目指すべき、三つの目標を立てました。

  1. 家族と、もっとゆっくり過ごしたい。できれば子供たちの長期休暇には、ビーチリゾートにのんびり滞在するようなライフスタイルにしたい。
  2. 若い頃、作家を志したことがあったので、自分の本を出してみたい。さらに、できれば一編の短編でいいので、小説を世に出したい。
  3. 瞑想を深め、悟りなるものを体験してみたい。

「1」は実現が用意で、アーリーリタイアした翌月からさっそく開始しました。「2」の自著出版については、書くこと自体は楽しかったものの、原稿を引き受けてくれる出版社が中々みつからず、かなりの苦戦を強いられましたが、翌二〇一七年、なんとか前述したアーリーリタイアについての啓蒙書を上梓することができました。

 しかし、小説に関しては書けども書けども、まったく芽は出ず、結局、二〇二〇年に断念することになります。小説を世に出せなかったこと、そして、結果として多大な時間を浪費してしまったことは残念ではありましたが、小説家としての才能がないことを、自分自身でしっかり受け止めることができたため、挑戦したことに悔いはありません。

「ひょっとして小説家にだってなれたのでは?」

という後悔を墓場までもっていかないために、犠牲にせざるをえない時間と労力だったのだと納得しています。

私はこうして禅道場の門を叩いた

 さて、そんなふうにして日々を過ごしているうちに、アーリーリタイア時に立てた目標のうち、「3」の「悟り」だけが残されることになりました。その頃も独学での瞑想は細々と続けていたものの、相変わらず禅定は深まりません。欧米での瞑想人気はさらに高まっているようだし、地元にも指導してくれる施設ができていないだろうかと考え、再度、「瞑想」というキーワードで検索してみましたが、やはり信頼できそうな教室はみつかりませんでした。

 そんなとき、ふと、「坐禅」で探してみてはどうだろう、と思いつきました。地元には禅宗のお寺も多いため、一般向けに坐禅の指導をしてくれる所もあるのでは、と考えたのです。検索してみると、お寺ではありませんでしたが、全国的な規模の臨済宗系・在家禅団体の支部が、地元にあることがわかりました。街外れの山間部に位置し、車なら一時間もせずに着きそうな距離です。さっそく問い合わせてみたところ、毎週の日曜日、隔週で土曜日に坐禅会を行っているのに加え、年に四回、四~五日間の摂心会(坐禅合宿)も開催しているとのことでした。

 そういえば、スマナサーラの他の本(*三)に、「瞑想を深めるには、徹底的に二週間ぐらい、覚悟を決めてやるとよい」と書かれていたことを思い出しました。二週間となると気が遠くなりますが、五日間程度なら気合いで乗り切れそうな気もします。

「禅定を深められるかもしれないし、ひょっとしたら悟りのヒントがあるかもしれない。リタイアするときに決めた目標を達成するために、そのくらい頑張れないでどうする!」

そう自分に喝を入れた私は、二〇二三年、新型コロナウイルスの感染症法上の分類が二類相当から五類に引き下げられたことにも背を押され、摂心会への参加を決めたのでした。

 初の禅合宿は緊張の連続

 実際に参加した初夏の摂心会は、想像していた以上に本格的なものでした。参加者は年季の入った会員ばかりで、新規参加者(新到者と呼ばれます)は私を含めたった二名。そのうち最初から最後まで、通しで参加するのは私だけという状況でした。初日の夕刻、到着直後に執り行われた結制茶礼(開会式)では、厳粛な雰囲気と、会員に(げき)を飛ばす老師の迫力とに、いきなり圧倒されることになります。

(すごいところに来ちゃったな。本当に五日間もがんばれるのだろうか)

との不安が胸中をよぎりました。

 摂心会での一日の動きを紹介しますと、まず、朝は五時に起床。玄関に吊り下げられた木板(もっぱん)と呼ばれる厚い板が、木槌で打ち鳴らされるのを合図にして、参加者が一斉に体を起こし、寝具を片づけ始めます。ちなみに男性修行者十数人は、冷房のない五十畳ほどの禅堂での雑魚寝。ただでさえ蒸し暑い中、いびきや歯ぎしりが激しい人もいて、睡眠を確保するのは難しいのですが、寝不足だろうがなんだろうが、全員が同時に飛び起きて、手分けして道場の清掃を行い、その後、五時半からさっそく坐禅が始まります。

 始まりの合図は(たく)引磬(いんきん)といった鳴物で行われ、私語は厳禁。禅堂への入退室にも作法があり、初心者としては肝心の坐禅以前に、ヒンシュクを買うような振る舞いをしないようにとの緊張を強いられます。

 坐禅は「静坐」と、それに続く「参禅」の二つに区切られていました。最初の静坐は四五分間の坐禅で、その後、五分間の休憩を挟んで参禅に移ります。参禅では、会員たちが鐘の音を合図に順番に禅堂を出て、合掌の姿勢のまま長い廊下を渡り、先にある老師の部屋へ向かいます。そこで老師と一対一で、禅問答(公案)をするのだそうです(これを入室といいます)。公案は禅宗の中でも、特に臨済宗系の寺や道場で、現在も修行の一環として広く用いられています。

 公案については、例を挙げて説明するほうがわかりやすいでしょう。有名なものに、江戸中期の禅僧、白隠(はくいん)()(かく)が創案した「隻手(せきしゅ)音声(おんじょう)」があります。

両手を合わせて打てばパンと音がするが、片手だけでは何の音もしない……はずなのですが、そこに微かな音があるから聞いて来い、というもの。もちろん、理屈で考えても答えは出てきません。無理難題にもみえる質問をうけた修行者が、答えをみつけるため、公案と一体となるほど集中し、かつ執着分別心、煩悩妄想を根こそぎ振り払って、初めて答えがみえてくるのだとか。この参禅が一日に三回あり、そのたびに違う答えをもっていかなければならないため、修行者は常に公案について試行錯誤(工夫)する必要があるのだそうです。

話を聞くだけで、なんとも大変そうなのですが、これが楽しみや、やりがいになっている会員も多いとのこと。私は非会員の新到者だったため、公案を授かることもなく、会員の皆さんが順番に禅堂を出て、参禅を終えて戻ってくるのを、ただ坐禅を組みながら待つことになります。この時間がまた長く、いいかげん組んだ足も痛くなってくるため、私も会員のように一旦立って退席して、禅問答でもしたほうが楽なのでは、と感じることもありましたが、行き来する皆さんの思いつめたような表情をみると、「ちょっと自分には無理かな」というのが、そのときの率直な感想でした。

 食事では「たくあん」に注意

静坐、参禅の後は朝食。食事も修行の一環なので、供されるのは質素な精進料理で、ご飯、みそ汁、たくあん、それに肉っけのない小鉢が一~二品。給仕係が運んでくる茶碗や皿を、そのたびに合掌しながら受け取り、料理が揃うと「食前の文」の合唱が始まります。

“ひと~つ、百丈和尚の曰く、「一日()さざれば、一日(くら)わず」と。我れ今、恥ずること無くして()の箸を採り得るや?”

いわゆる「働かざるもの食うべからず」ですね。ここで修行者たちは自分が食事に値する仕事をしているか自問するのでしょう。このような文句が全部で五つあり、合唱後、老師がみそ汁を一口すするのを合図に、私たち修行者もようやく食事を始めます。

坐禅中だけでなく、食事の場においても会話はなく、例えば、「おかわり」とか、「ご飯はそんなに盛らないで」といったことも、すべて禅特有のジェスチャーで行われていました。もっとも私自身は、とてもそこまで神経が回らないので、最後まで余計なリクエストはせずに、盛られた分をそのままいただくだけでしたが。

先ほども書いたように、食事は和気あいあいとした楽しみの場ではなく、修行の一環なので、終始、集中して箸を進めます。普段、ゆっくり食事をとることが多い私の感覚からすれば、まるで早食い競争のようなスピードなのに加え、できるだけ食器が当たる音や咀嚼音を立てず、静かに食べることが要求されるため、三度の食事も緊張の連続でした。

そして忘れてはならないのが、供される食事のうち、たくあんの最後の一切れを食べずに残しておくこと。食事の後、やはり給仕係が回って、ご飯茶碗に食後のお茶を注いでくれるので、ここで修行者は、残ったたくあんを箸でつまみ、茶碗内に残った米のぬかるみをこすり落とします。ご飯茶碗が終わったら、お茶を副食の椀に移し、それもたくあんで清掃。最後にみそ汁の椀にうつして飲み干し、ここでようやく最後の一切れを食べるというわけです。

こうすれば、食べ終わった皿はすでにかなりきれいなので、食事係の後片付けが楽になりますし、節水にもなって地球にやさしい。しかし、このたくあんでの清掃作業も大急ぎなので、慣れない身としてはとても緊張しますし、当然、お茶の味は妙な具合になってしまうのですが、そこは我慢、ということのようです。たくあんを一切れ残すことなど、何ら難しくはないはずなのですが、何回か食事を経験し、最初の緊張が緩むにつれて、大切な一切れについ箸を伸ばしかけ、冷や汗をかくこともありました。

ほうほうの体ながらも禅合宿を完遂

朝食の後は、作務。炊事の担当者は朝食を片づけ、昼食の準備に入りますし、他に、たとえば侍者という役位もあって、老師のお世話や、言いつかった用事をこなすのが任務です。その他の大多数、特に男性陣は、雨が降っていなければ外で庭仕事、雨ならば堂内の掃除を行います。もちろん、禅堂を維持するためには人手が必要、という現実的な側面もあるのでしょうが、そもそも禅宗では作務も修行の一環とされていて、坐禅同様、集中して行うことが求められます。興味深いのは、高齢の老師も修行者たちと一緒になって作業し、汗を流していたこと。「働かざる者、食うべからず」は、決して建て前や、きれいごとではないようです。

作務は一時間半で終了し、昼食の後は休憩。この時間に特に仕事がなければ、昼寝をしてもいいようで、禅堂で横になって休んでいる人の姿もちらほらみられます。昼寝ができるなら、夜は多少寝不足でもなんとかなる! と、ほくそ笑んだものの、これがとんだぬか喜びで、三日目以降は老師との面会があったり、禅堂が講演会場として設営されたため寝場所がなくなったりで、私が昼寝できたのは結局、二日目の一回きりでした。

昼休憩の後は再度、作務、静坐、夕食と進み、夕食後は「提唱」という、老師からの講義(?)の時間。禅堂に提唱台(提唱用の、腰の高さ位の舞台)が設置され、その上から老師が、難解な経典を噛み砕いて解説します。もちろん興味深くはあるのですが、わかりやすい話ばかりではありません。連日の寝不足に加え、作務で疲れていれば眠くもなりますし、長い坐禅で痛んだ膝が悲鳴を上げたりもして、初心者にとってはこれもきつい時間でした。

その後はまたしても、静坐、参禅、静坐が繰り返され、午後一〇時ちょうどに(かい)(ちん)(就寝のこと)を告げる木板の音が鳴ると、一日の日程は終了。後は、順番にシャワーを浴びて、床につくことになります。

摂心会の大体の雰囲気が、ご理解いただけましたでしょうか。正直にいいますと、初参加の身で五日間、通しで修行するのは、実にきつい経験でした。膝の痛みは日に日に増し、足を組むだけで冷や汗が滲むほどになったため、三日目からは椅子を使っての、椅子禅に変えてもらったくらいです(正確に言うと、膝がひどく痛むので帰りますと言おうとしたら、なら椅子禅を試しましょうと先に言われてしまい、逃げ帰る機会を逸したのでした……)。

また、私の場合はずっとマンション暮らしで、草むしりなどは子供の頃以来でしたので、慣れない姿勢で腰は痛みますし、草や棘で指を切ってしまうこともありました。

(自分の家にだってサッシとか物置とか、掃除が行き届いていない場所があって気になっていたのに、こんなところで痛い思いをしながら、いったい何をしているんだろう)

そんなエゴ丸出しの、情けない雑念が浮かんできたりもします。

その後も何度も修行を止め、帰らせてもらおうという考えが頭をよぎったのですが、古参の会員の皆さんに励まされたり、座り方のアドバイスをいただいたりして、なんとか五日間の日程を完遂。最終日には、やり遂げた達成感に加え、坐禅中に、今まで感じたことがないような深い禅定が得ることができ、がんばって本当によかった、と涙が出るような思いでした。

 老師との一対一の面談に臨む

さて、ここで話は少しさかのぼりますが、摂心会三日目の午後、老師と一対一で面談する機会がありました。僕より後に部分参加をした、もう一人の新到者も面談をしていたので、新到者には老師と話をする機会を設ける、というルールになっているようです。

老師は七〇歳代、小柄で禿頭。それまでは提唱や作務で見かける程度で、会話をする機会はありませんでしたが、目つきはするどく、特に提唱では実に迫力があります。初日からの緊張で、ただでさえ疲れていたので、老師と面談と聞いたときは、なんとか避けられないものかと思いましたが、どうやら断るという選択肢はなさそうだとわかってからは、せっかくのチャンスだから、しっかり質問をぶつけてみようと、開き直るような心持ちになりました。

私が老師に尋ねたかったのは、ずばり「無我」について。何かに熱中したとき、その没頭する様子を無我夢中といいますし、ひとつのことに集中している状況を無我の境地と呼んだりしますが、これらは我を忘れている、すなわち「忘我」であり、仏教で説かれる無我とは異なります。仏教の無我とは、本当に「無」。すなわち、自分というものがあるように感じているのは錯覚にすぎない、という教えです。自分がないだなんて、ずいぶん無茶な話だと、普通は思いますよね。

しかし私はその少し前から、ブッダの説いた無我は、どうやら真実らしいと信じるようになっていました。というのも、ここ半世紀の脳科学や心理学の研究結果をみる限り、私たちに自分の管理人のような確固たる自我があるという感覚は、錯覚にすぎないようなのです(これについては第Ⅱ章で詳述します)。とはいえ、それはあくまでも論文を通じて学んだ、理屈としての理解にすぎません。人生のほとんどの期間を坐禅と共に過ごし、しかし、私が学んだような科学的知見はご存じないであろう老師にとって、無我という概念はどのくらいのリアリティをもっているのか、本音を聞き出したいと思ったのです。

どうです、度胸あるでしょ? いやはや、震える思いでしたよ。

老師にとって「無我」は当然の理であった!

さて、いざ本番。侍者につきそわれ、隠寮と表示されている、老師が滞在している部屋へと向かいました。儀式や作務でみかける老師は、常に険しい表情を浮かべていますし、会員に対しては容赦なく、すぐに大声で叱咤します。しかし、面談では私を柔らかい笑顔で迎えてくれました。

まあ、それはそうでしょう。会員に接するときと同様の厳しさで新到者に接すれば、多くは恐れをなすか、場合によってはモラハラだ、と怒り出すかして、道場を去ってしまいかねません。私は少し安心しながらも、もちろん緊張を解くことはなく、「摂心会に参加した理由」や、「医者を辞めて、今は何をしているのか」といったことについて、老師に聞かれるままに答えていきます。

一通りの問答の後、老師は言いました。

「私からはこんなところだが、内山さんから、何か質問はありますか」

 私は「今がチャンス」と身を乗り出して話し始めました。まずは近年の研究から、確固たる自我などないと、私が結論づけることになった根拠となる知見をいくつか紹介。老師は、うんうん、と頷きながら、耳を傾けています。次いで私は、これらの知見は二五〇〇年前に釈尊が悟った内容とほぼ同一であり、仏教の教えに科学が追いつきつつあるように思えてならない、と力説しました。

しかしどうやら、私の話す内容は、老師のお気には召さなかったようです。「坐禅修行によって、本当に無我を体感できるのか」という肝心の質問にたどり着く前に、老師は、もう我慢がならないといった様子で言い放ったのでした。

「で、それがどうした?」

(え、どうしたと言われても……、私はすごい話だと思うんですが。それより、非会員に対する遠慮モードはもう終了?)

予想外の展開に言葉を失う私をよそに、老師は続けます。

「無我を論理的に理解したってしょうがない。それで内山さんの人生は変わりましたか」

「以前より自説にこだわったり、むきになったりする頻度は減ったように思えますが……」

「そんなんじゃダメだ!」老師の言葉に迫力が増します。「無我が分かれば、すべてが変わる。ものの見方から何から、一八〇度、ガラっと違ってくる。でも、理屈じゃないんだ。感覚的にそれがわからなければ、何の意味もない。そのためには坐禅での修業が必要になってくる」

 老師はここで言葉を切ると、口調を少し穏やかなものに変えて続けました。

「もちろん無我を理解するのは簡単ではないが、さりとて、出家しなければ成しえないほどのものではない。とくに臨済宗では、古人の知恵がつまった公案が、それを助けてくれますから」

 でた、恐怖の公案! 

「やる気があるなら、私に弟子入りするといい。内山さんを受け入れるための条件はふたつだけ。一生かけて修行をする強い決心をすること。そして年四回の摂心会には毎回来ること。合宿がない間は、できるだけ土曜、日曜の坐禅会には出席した上で、家でも毎日、一炷(いっちゅう)(こう)(線香が燃え尽きるまでの時間で、だいたい四五分)坐禅をしなさい。それを全身全霊でやれば、ときどき、飲み込みが悪くてうまくいかない奴もいるにせよ、大体三年で無我がわかる。禅の修行は一生をかけて行うにせよ、それが悟りの最初の一歩です」

何とも力強い口調に圧倒されました。映画ならここで、仰々しい効果音が挿入されそうな雰囲気です。でも、老師からの条件、本当にふたつだけでした? もっとあったような気もするのですが……。

もとを正せば、私は無我のリアリティについて聞くつもりで質問を始めたのですが、老師にとって、もはや無我は当然の理らしく、どうしたらそこに到達できるかというところまで話が飛んでしまったようです。しかも、「無我がわかる」のは、まだ修行の入り口とのこと。

(三年で無我がわかる? そしてその後には、さらに深い世界が広がっている……)

 私が受けた衝撃のほどを、ご理解いただけますでしょうか。

そこで私が、すぐさま叩頭して入門を申し出たとなれば、いかにも禅修行の話にありがちな展開になるのですが、実際の私はというと、ゴニョゴニョと言葉を濁しながら、その場から退散したのでした。

もちろん無我を体得することに、興味はありました。そもそも、そのための摂心会参加です。しかし、前述したように、初参加の摂心会の最中は、背筋や膝がひどく痛んだり、ストレスで暴走する雑念を制御できなくなったりして、できれば、すぐにでも帰りたい心境だったのです。年四回の摂心会に、毎回、参加するという老師から条件が、そのときの私には、途方もなく高いハードルに感じられたのでした。

無我を知りたい。老師が言うような、「すべてがガラリと変わる」ような体験をしてみたい。しかし、この摂心会は私にはきつすぎる……。そう考えた私は、会員になることはせず、その代わり、老師が言っていた四五分間の坐禅を、一日一回ではなく、二~三回行うことを自分に課しました。

悟り体験(?)から入門へ

アーリーリタイアして時間はありましたし、摂心会がつらかっただけでやる気には溢れていましたから、一日複数回の坐禅を続けることに何ら問題はありません。禅定が深まっている実感はあまりありませんでしたが、愚直に毎日続けていれば、さすがに少しずつは進歩しているはずと信じ、毎日、自宅で座る日々を過ごしました。

すると、それから一年後、二〇二四年の春の夕方、その日の二回目の坐禅が私にしては中々うまくいき、気分良く近所の公園を散歩しているとき、ふと、自分が薄まったような感覚が訪れました。もちろん歩いているのは私自身なのですが、自分と外界との境界が弱まって、周りとつながっているような気分になったのです。不思議に思って見回すと、公園の自然がいつもより美しく感じられます。きらめく日差しの中にそびえる、生命の息吹。その中に、限りなく広がる自分。さらには、自分が過去から未来をつなぐ、刹那であるような感覚に襲われました。自分の存在を刹那などと表現すると、恐ろしく聞こえるかもしれませんが、それはとても満ち足りた、平穏な時間でした。

そして、その感覚が収まるにつれ、ひとつの考えが頭をもたげたのです。

ひょっとして今、私は悟ったのではなかろうか、と。

これが悟りなのかどうか、私には判断しようがありません。それに、少し前に読んだ禅の本(*四)に、「独り免許で悟ったとしてはならない。必ず師家に鑑別してもらうこと」と書かれていたことを思い出し、私はついに決心しました。

(よし、老師に弟子入りしよう)

摂心会がつらかろうがなんだろうが、独断での悟りで満足するのでは、やはり物足りません。それに前回ひどく痛んだ膝は、毎日の坐禅でかなり鍛えられているはずですし、本当に無我がわかったのなら、摂心会中に自我の暴走による強いストレスに晒されることもないはずです。

(今なら、できるはず)

このような経緯を得て、最初の摂心会参加からちょうど一年後の二〇二四年、七月。私は再び道場の門を叩き、入門を申し入れたのでした。

そもそも悟りとは?  

ここで自分史を一時中断して、そもそも仏教における「悟り」とは何なのか、考えてみたいと思います。悟りというと、日常生活にはなんの役にも立たない、世捨て人のためのもの、というイメージが一般的にはあるようです。実際、この本を読んでいる人の中で、悟りの定義を説明できる人はどのくらいいるでしょうか。

おそらく、かなり少ないでしょう。というのも、ブッダの言動を記録したとされる初期の経典に、はっきりした悟りの定義は記されていないのです。仏教がわかりにくいのも当然ですよね。

この難問に対し、禅僧・南直哉(*五)は著書の中で、「ブッダが悟る前、何を問題にし、何をしたのか」、そして「悟った後、何を語ったのか」を検討することによって、「悟り」へのアプローチを試みています。南氏がたどり着いた結論は、「悟り」とは「無明の発見」、つまり、実体として存在しないものを、存在すると錯誤することの自覚、というものでした。これは「無我」にも通じてきそうです。

テーラワーダ仏教では、悟りには四段階あるとし、最初の段階を預流果(よるか)と呼びます(*六)。預流果では、細かく分ければ千五百もあると言われる煩悩のうち、たった三つ(三結)しか消えませんが、それらは悟りを決定づける、極めて重要なポイントなのだそうです。

一つ目は、「()(しん)(けん)」と呼ばれる煩悩。「私の身体」「私という心身集合体」など、どう呼んでもいいのですが、「私」というものがいると錯覚している煩悩が、まず根こそぎ消えるとのこと。瞑想したり、集中して仏法を聞いたりしている最中に、何も存在しない瞬間を体験して、「ああ、私がいるわけではないのだ」と納得すると智慧が生まれ、有身見が消えるとのことですから、まさに「無我」ですね。

二つ目は「()(何が真実かわからずウジウジしていること)」、三つ目は「戒禁(かいごん)(しゅ)(しきたりや苦行などにこだわること)」で、これらは一つ目の有身見が消えれば自然に消えるとのことなので、あまりこだわらないでおきます。

というわけで簡単にまとめると、テーラワーダ仏教での「悟り」は無我の体感を意味することになり、これは前述した南直哉による類推に近いですし、摂心会で老師が私に述べた、「無我の理解が、悟りの第一歩だ」という見解にも一致します。どうやら悟りの本質はこの辺りにあると考えてよさそうです。

 悟りへの近道――本来の自分って何だろう?

ちなみに私が入門した道場は臨済宗系ですので、悟りの正否は基本的に「公案」によって、はかられます。

入門者に最初に提示される公案は、「本来の面目」。その道場の公案集「()筌集(せんしゅう)」では、第一則に、こう記されています。

父母(ふぼ)未生(みしょう)以前に()ける、本来の面目(めんもく)如何(いかん)?”

 摂心会でこの公案を与えられると、初心の修行者は常に公案三昧になって、「父母未生以前」の世界に入りこみ、真実の自己になりきることを求められます。

「我々一人ひとりに仏性が備わっている」と大乗仏教では説きますが、禅宗ではそれを知識として知るだけでなく、「これだ!」と体得することこそが重要とされ、「見性(けんしょう)」と呼ばれます。老師は修行者の見解(けんげ)を厳正に見極め、しっかりとした理解に及んだと判断した場合には、見性(けんしょう)成仏(じょうぶつ)したと認め、悟りを開いた修行者に与えられる「道号」を授与する、という流れになっているようです。

数ある公案の中で、なぜこの公案が、悟りを開いたかどうかを見定める、特別なものになるのか。これが中々おもしろい話なので、紹介させてください。

禅宗の初祖、つまりスタートはインドから中国に渡った達磨(だるま)とされていますが、これは達磨から数えて六番目、第六祖にあたる大鑑(たいかん)慧能(えのう)のエピソードです。慧能は身分が低く、当時の唐の国では、僧侶になるには厳重な資格上の制限があったため、正式な修行僧ではなく、行者(あんじゃ)と呼ばれる寺男となって、まき割り、庭掃除などの雑役に服していました。そして、夜遅くになってから密かに五祖・()(にん)の室に入り、参禅をしていたのだそうです。

慧能の熟達具合を高く評価した弘忍は、ある日、慧能を跡継ぎとして認め、達磨伝来の袈裟(けさ)(てっ)(ぱつ)(僧が托鉢の際に用いる鉄製の丸い鉢)を授け、南方へ旅立たせました。ところが一夜明け、身分の低さから慧能を軽く扱っていた他の修行僧たちは、慧能が神聖な袈裟と鉄鉢を盗んで逃げたと勘違いし、慌てて後を追います。なぜ、弘忍がちゃんと説明して、皆を止めなかったのか不思議ですが、まあ、そういうことになっています。

結局、明上座(みょうじょうざ)(上座は修行僧への敬称)という修行僧が慧能に追いつき、詰め寄るやいなや、袈裟と鉄鉢を取り上げようとしました。しかし、本来その資格がない明には、重くて持ち上げることができません。おそらくあなたはここで、「嘘だあ」と思っていることでしょう。実は私もそう思います。

しかし、面白いのはここから。明はそれによって、

「これは盗んだものではなく、伝法のしるしとして、五祖弘忍がまさしく付授したものである」

と自らの勘違いに気づきました。さらに、根が純真な僧だけに、態度をガラリと変えて、

「私はいまだに悟れずにおります。どう工夫したら悟れるか、その工夫の仕方をお示し頂きたい」

と、誠意をもって懇願したのです。

 明の豹変ぶりに意表を突かれたのでしょう。慧能は、つい大サービスをして、大きなヒントを口にしました(*七)。それが、

「不思善、不思悪、正与麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ明上座が本来の面目?」

という言葉。

善悪など一切の相対的な考えを超越した世界、すなわち絶対界に入ったそのとき、あなたの本来の姿はなにかと工夫せよ、と開示したのです。すると、それまでの修行である程度まで道力を鍛えていた明は、すぐに見性成仏の実をあげた、つまり、悟りの境地に達しました。

このエピソードを公案にしたのが、「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」というわけです。

仏教の修行では、ブッダが菩提樹(ぼだいじゅ)の根本で悟ったように、自らも悟ることが重要ですが、よほどの才能に恵まれない限り、坐るだけで悟るのは難しい。そこで、慧能が明に与えたとされるヒントを利用して、悟りへのハードルを下げたというわけです。

さらに、摂心会中の一日三回の参禅では、老師と一対一で言葉を交わすことができます。禅問答では、老師と修行者との間で丁々発止のやり取りがある、と思っている人もいるかもしれませんが、実際には、そんなことはありません。たいていは老師に相手にもされず、木で鼻をくくるような扱いで、退室の合図である鈴を振られて帰ってくるだけです(トホホ……)。答えを自分で見つけ出すことこそが肝なので、ヒントももらえません。

しかし、たとえ老師に「まだまだ」としか言われなくても、その一言で自分の見解は正答から、ほど遠いことがわかりますし、「同じようなものばっかりもってきてもダメだ」と叱られれば、すでに方向性からして間違っていると気づくことができます。逆に、老師が「ううむ」と唸って、「もう一工夫」と呟けば、これは正答に近づいている兆候と思っていいでしょう。

ただでさえ、「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」という大ヒントがある上に、入室のたびに方向性を確認していけば、たとえ瞑想の才能がなくても、教わるのではなく、内側から湧き上がる感覚で悟りを理解することできる、という理屈のようで、個人的には、「よくできたシステムだなあ」と感銘を受けました。まあ、それでも普通は一年から数年かかるわけですが。

スピード開悟で考えたこと

ここで、私自身の経緯に話を戻します。

自分は悟りの境地に達しているのではないか、との思いに突き動かされるようにして入門したのが二〇二四年、七月。しかし、たとえ悟りらしきものを感じてはいても、「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」との問いに、老師が納得する見解を示すことができるかは別の話で、最初の摂心会は、「まだまだ」と鈴を鳴らされるだけで終わりました。しかし、その年の九月、公案を授かってから二回目の摂心会では、なんとかこの初関を透過し、その次の十一月の摂心会において、老師から「見性を得た」と認められることになりました。

ちなみに、老師との禅問答の内容については、一切口外しないのが絶対のルールなので、ここでも書くことができません。答えが広まってしまえば、後々の修行者は悟りへの羅針盤を失うことになり、結果として、多大なる迷惑を被ることになってしまいます。初関透過後、ネットで調べれば公案の答えは出てくるのだろうかと興味が湧き、ざっと調べてもみましたが、少なくとも私が老師に呈した見解は見つかりませんでした。この情報化社会でも、(いにしえ)からの秘密がきちんと守られていることには、感嘆せざるをえません。

入門から四カ月のスピード開悟は、わりと珍しいケースらしく、驚いてくれた先輩修行者もいましたが、私自身は、入門時にはすでに悟ったつもりでいたので、「意外と時間がかかっちゃったな」というのが正直な感想でした。しかし事前に感じていた悟りが、まだまだ底が浅かったことや、坐禅のレベルが低く、深い禅定に入れないため、工夫の仕方が下手で、結果として透過まで時間を要したことは認めざるをえません。

まあ、何にせよ、私もここでめでたく悟りを開いた人、すなわち、仏になったと認められることになりました(なお、悟りイコール無我なのであれば、悟りに『私』という主語を設けるのはおかしいという、実にごもっともな意見もあるようなので、もし気になるようなら、本書における『私』は脳をコントロールする管理者のような立ち位置ではなく、常に変化する認知のまとまりのことを、仮にそう呼んでいるのだとご理解ください)。

なぜ私はこんな短期間で、悟ることができたのでしょうか。

瞑想が上手かったから、ということは絶対にありません。これはもう、一〇〇パーセント断言いたします。いまだに坐禅中の雑念はやみませんし、すっかり思考にはまってしまっていたことに時間がたってから気づき、坐蒲の上でいったい何をやっているんだか、と自嘲することもしょっちゅうです。

となれば私が早く悟れた理由は、いくつかの科学的知見に触れていたことによって、ブッダの説いた「無我」が真実だと確信していたから、としか考えられません。もちろん、ほとんどの修行者はブッダの教えに興味をもち、ある程度、納得したからこそ修行の道に入るのでしょうが、それでも、

「自分がないなんて、ありえない話だよな。先人たちがそう感じるのは、瞑想でハイになったときに現れた、幻想か何かじゃないの?」

とか、あるいは、

「指導者たちから繰り返しそう教われば、どこかの時点で、『確かに無我です』とわかったふりをせざるをえないよね」

といった疑念が、頭の片隅にあったはずです。

 私の場合は科学的に無我を理解し、真実に違いないと確信した上で、これを知識としてだけでなく、坐禅瞑想によって体に感覚として落としこみたい、という理由で修行を始めたため、その時点でかなり有利な位置にいました。この違いこそが、無我を体感するまでの時間が短くすんだ理由に違いありません。

 ただ、ひとつ残念だったのは、悟りの瞬間が、多くの方が語るような、「雷に打たれたかのような衝撃」ではなかったということ。「本当に自分はないんだ」と気づくのと、知っていたことを確認するのとでは、受ける衝撃に違いがあっても仕方がないでしょう。それでも、普通は年単位の歳月がかかるところを、短期間で悟れたわけですから、基本的にはいいことのはずと納得することにして、その後の話にコマを進めましょう。

 家族や友人にも悟ってほしい、と思ったものの……

 すさまじい衝撃とまではいかなくとも、悟りを開いた喜びはとても大きなものでした。となれば、

(これを独り占めするのはもったいない)

という気持ちも湧いてこようものです。特に、家族や親しい友人には、ぜひ同様に悟りの境地に至ってもらい、喜びを分かち合いたいと思うようになりました。自利がある程度満たされたので、ぼちぼち利他も取り入れていこう、というところでしょうか。

そこで、友人と会うたびに自分の体験を話したところ、皆、それなりに興味を示してくれました。しかし、「毎週、日曜日の午前中に坐禅会があるから、一度、体験してみない?」と誘うと、ほとんどの人は、「いやあ、それはちょっと……」と口を濁します。「せっかくの日曜日に、朝寝坊できないのはつらい」とか、「坐禅は足が痺れそうで苦手」とか、「作法が面倒で緊張しそう」とか、あるいは、「うちは代々、神道なので……(?)」といった、理由は多種多様ながら、結論としては断りの返事ばかりが返ってくるのです。

 結局、日曜日の坐禅会に顔を出してくれたのは三人だけ。その三人も、

「今度は摂心会に部分参加してみない? 通しだときついけど、数時間、顔を出すだけなら、禅の作法にのっとった食事作法とか、老師の提唱とか、普通はテレビなんかでしか見られない、おもしろい経験ができるよ」

と誘うと、「そこまでは、いいかな」、とつれない返事。結局、日曜日の禅会に再び来てくれることすらありませんでした。このときの私は自分が禅にのめりこむあまり、坐禅に対して一般の人が抱く堅苦しいイメージや、そもそも皆、日常生活に追われて忙しくしており、そうそう時間はとれないのだという現実を、完全に失念していたのです。

 これでは、どうにもなりません。とりあえず利他のほうは一旦忘れて、自分の悟りを深めるための修行に精進するしかないな、とあきらめかけたとき、あるアイディアが浮かびました。

科学的知見の利用で現代人にも悟りを  

 それが、「はじめに」でも記した、科学的知見をフル活用するやり方です。

以前述べたとおり、私自身も根底にそれがあったからこそ、比較的短期間で悟りを開けたのだと確信しています。しかし、私は脳の専門家ではありませんから、知っていた知見の数は少なく、断片的なものにすぎませんでした。

 もともと私は医師なので、科学論文なら読めます。そこで、無我を理解するのに必要な論文をかき集め、特に優れたものを高い密度で提示することによって、論理的な無我の理解を盤石なものにしてもらえれば、その後は大した修行をしなくても、いえ、なんなら、たった一回の瞑想でも、悟ることが可能なのでは、と思いついたのです。

 六祖慧能は、「不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目?」と大ヒントを出して、明をたちまち悟りへと導きました。悟りとは無我を「自分の内側から」から理解すること、という大原則を崩すことなく、悟りへのハードルを押し下げてくれたわけです。ならば私が、科学的知見をしっかりと紹介することによって、忙しくて修行の時間がとれない現代人でも悟れるよう、さらにハードルを下げることもできそうな気がします。そしてそれは医師(科学者)と修行者という、両方の顔をもった私のような人間にしかできない仕事のはずです。

 このアイディアのもと、精一杯、知恵を絞りながら執筆し、家族や友人に試してもらった上で、最終的に、「これならいける!」と確信したのが、続く第Ⅱ章、第Ⅲ章になります。まだまだ眉に唾をつけて読んでいる人も多いことと思いますし、それでまったくかまいません。しかし、もし後に続く章も読み、実際に瞑想に挑戦しようというやる気があるなら、ぜひ、大真面目で取り組んでみてください。短期間で悟るお手伝いはできても、不真面目な人を導くことは、どんな手法を使おうとも、そして、どんなに仏教の教えが素晴らしかろうとも、絶対に不可能ですので。

 皆さんが無事、悟りを開かれますことを、心からお祈りいたします。

───悟り隊・隊長 内山直

参考文献
  • 一 リチャード・カールソン(2000 原書は1997)『小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと』173‐4頁 サンマーク文庫
  • 二 アルボムッレ・スマナサーラ(2004)『自分を変える気づきの瞑想法 やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法』サンガ
  • 三 アルボムッレ・スマナサーラ(2007)『現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話』139頁サンガ新書
  • 四 芳賀幸四郎(1963)『禅入門』84頁 講談社ミリオンブックス
  • 五 南直哉著(2018)『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』38‐55頁新潮社
  • 六 藤本晃(2005)日本テーラワーダ仏教協会・機関紙『パティパダー』5月号
  • 七 立田英山(1967)『新編無門関提唱』33‐4頁 人間禅出版部

※原文はタテ書き

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