一日で悟りを開く方法 <3章>
~ただ一度の瞑想で悟りを開く
さて、いよいよ本番。悟りのために必要な、「たった一度」の坐禅瞑想に挑戦しましょう。所要時間としては二〇分程度を想定しています。
一回の瞑想で悟りを開くなど、従来の常識でいえば不可能なのですが、皆さんには前章で学んだ科学的知見という武器があります。自我は錯覚などということがありうるのだろうか、と疑いながら瞑想するのと比べれば、スタート時点でかなり有利な位置にいますし、「自分がいないなんて、信じたくない」との正常化バイアスも、すでにある程度は取り除かれているはずです。
とはいえ、これが大変なチャレンジであることに間違いはありません。そこで実際の瞑想の前に、いくつかのポイントを確認させてください。
瞑想前のチェックポイント
まず、次のいずれかに当てはまる人は、挑戦を延期してください。
- イライラしている人
- 疲れている人
- 眠い人
- アルコールが入っている人
これらは瞑想に適した状態とはいえません。人生において最初で最後になるかもしれない貴重な機会ですので、必ずコンディションを整えてから取り組んでください。
次に、二〇~三〇分程度、ひとりで静かに過ごせる場所があることを確認します。家族がテレビを見ながら笑っている部屋や、いつ子供がふざけて、飛びついてくるかわからない環境では、集中して瞑想に取り組むことはできません。場所の確保が難しいようならトイレでもかまいませんので、その際は家族に、これからしばらく用を足す予定がないことを確認しておきましょう。
最後に、この本を開いてから日数が空いているなどの理由で、前章での科学的知見をよく覚えていないという方は、ざっとでいいので読み返して、記憶を呼び戻してください。無我を示す科学的知見が悟り隊の武器なので、これを疎かにしてしまえば、成功の見込みは限りなく小さくなります。
以上のポイントがクリアできたようであれば、瞑想の具体的なやり方へと進みましょう。
坐禅、椅子禅、立禅、そして寝禅
基本的には、座って行うことをおすすめします。座るのは床でも、椅子の上でも、どちらでもかまいません。床に座る場合は、座布団などを使って、痛い思いをしないですむよう工夫してください。日頃、座っているときは、無意識のうちに重心を移動させて痛みを和らげていますが、瞑想中はあまり体を動かさないでほしいので、同じ姿勢のままでも苦痛を感じない、快適な環境づくりが大切です。
座り方には、一般的な坐禅の座り方である結跏趺坐(両方の足を腿の上に載せる)や半跏趺坐(片方の足のみ腿の上に載せる)、そして正座があります。いずれも力まず、背筋をすっと伸ばすようにしてください。折りたたんだ座布団やクッションをお尻の下に差し込むと、座りやすくなります。一般的な「あぐら」や体育座りは、避けてください。一見、楽そうに見えますが、背筋が曲がるため、そのままの体勢で二〇分過ごすとなると、背中や腰を痛める可能性があります。結跏趺坐、半跏趺坐、正座のいずれも難しい場合は、椅子に座るほうが無難でしょう。
椅子の場合、床と腿が水平になる高さの椅子を選んでください。必要に応じ、座布団やバスタオルを畳んだものを挟むなどして、調整するといいでしょう。浅く座り、足は肩幅に開いて床につけ、やはり力むことなく背筋をすっと伸ばします。背もたれは、あっても使わないこと。また、ソファは一見、楽そうにみえますが、あぐらと同様に背筋が曲がって、痛めやすくなるので避けてください。床、椅子、いずれの場合も手は楽な位置でかまいません。膝の上に置くのが無難ですが、もしご存じなら坐禅瞑想のスタイルである、法界定印などのムドラー(印)を結ぶのもいいでしょう。
適当な椅子がない場合は、立ったままでも構いません。この場合、胸の前で左右の手を重ねると安定します(禅でいう叉(しゃ)手当(しゅとう)胸(きょう))。仰向けに横になって行うのは、ダメとはいいませんが、楽なぶん集中しにくく、眠りに落ちやすい欠点があるため、あまりお勧めできません。健康上の理由などから、前述した坐禅、椅子禅、立禅のいずれも難しい場合に限り、採用することにしましょう。
姿勢以外の注意点について
いずれのスタイルにおいても、目はつぶっても、開けたままでもかまいません。目を開けたまま行う場合は、視線を四五度の角度で下方へ落とし、凝視するのではなく、床をぼんやり見るようにします。
呼吸はゆったりとした複式呼吸で、吸う息より吐く息を少し長めにするのが望ましいのですが、うまくいかない場合は、特にこだわらなくてかまいません。呼吸の仕方を気にしてばかりいると、さっぱり瞑想にならず、逆効果になってしまいますので、自分にとって楽な、普通の呼吸でもけっこうです。
呼吸が安定してきたら、呼吸の回数を数えます。吸って吐いてをワンセットとし、「ひとーつ」、「ふたーつ」と進んで、一〇〇まで数えてください。この瞑想法を禅では数(す)息(そく)観(かん)といい、数字を拠り所にすることによって、雑念に対処しやすくする効果があります。一から一〇〇まで数えるのには、呼吸が早い人で一〇分、遅い人で二~三〇分ほどかかりますので、ゆったりと呼吸できる人は一セット、できない人は二セットで終了、というあたりを目安にしましょう。
人によっては一〇〇まで数えられず、途中で数字がわからなくなってしまうこともあります。よくあることなので、あせったり自分を叱咤したりせず、もう一度、一から数え直してください。ただしこの場合、時間の経過がわかりにくくなってしまうため、「何にせよ終了にする合図」として、あらかじめ三〇分後くらいにアラームをセットしておくといいでしょう。そうすれば、たとえ瞑想がうまくいかなくても、いつ止めていいのかわからなくなり、不安のあまり数字を数えるどころではなくなってしまう事態は避けることができます(大袈裟に聞こえるかもしれませんが、瞑想中にパニックに陥る人もたまにいるようです。そのようなときはいったん中止し、気持ちを落ち着かせることを優先してください)。
数息と一体化し、雑念が生じないほど集中するのが理想ですが、どうしても雑念が生じてしまうのが普通なので、そのときは浮かんだ雑念を相手にせず、できるだけ早く数字のカウントに戻るようにしてください。避けてほしいのは、浮かんできた雑念に乗っかって、考えごとを始めてしまうこと。それでは瞑想になりませんので、考えごとをしていると気づいたら、たとえそれが大切な課題であったとしも、一旦は棚上げにして、意識を呼吸に戻してください。これはとても大切なポイントなので、くれぐれも念を押しておきます。瞑想はたった二〇分であり、かつ、一生に一度の大勝負です。人生の諸課題については瞑想が終ってから、気が済むまでゆっくり考えることにして、瞑想中は必ず、呼吸に集中するよう心掛けてください。
最後にもう一点。これからの瞑想で、皆さんのほとんどは、現在、知識としてしか理解していない無我を、経験によって体に落としこむことになります。そうすると、今までように、「まるで管理人のように自分自身を統括している」と錯覚した状態には、戻りたくても戻れなくなる可能性があります。私自身はもちろん、多くの先人たちは、無我の境地を素晴らしいものと捉えていますが、人によっては、「何も知らず、自動操縦されているほうが快適だった」と感じる可能性が、絶対にないとはいい切れません。本当に自分は悟りを開きたいのか、最後にもう一度問い直し、決心を固めてから次へ進んでください。
ここから先は、必ず二〇~三〇分間の瞑想を終えてから、あまり時間を開けずに読むようにしてください。
瞑想はうまくいかなくて当たり前
瞑想体験はいかがでしたか。
ばっちり集中できて、ほとんど雑念が浮かばなかった、という人は少ないはずです(とはいえ、こういう人もたまにいるので、そのようなケースについては本章の最後で説明します)。
多くの方の結果報告は、通常、次のようになります。
- いくつも考えが浮かんでとまどったが、何とか数字をつなぐことができ、一〇〇まで数えることができた。
- 考えごとにのめりこんでしまい、数字がわからなくなることもあったが、やり直しの末、一〇〇まで数えることができた。
- 考えごとや眠気のせいで、一〇〇まで数えきることができず、アラーム音で終了した。
- 途中で思考が止まらなくなるなどして、かなりイライラしたが、何とかアラーム音まで我慢できた。
- 数は数えられないわ、イライラするわで、アラーム音まで我慢できず、早めに終了した。
恐らく多くの人が、「一生に一度の瞑想は大失敗だった」と感じていることでしょう。ここで一般の瞑想指南書では、「初心者はそんなもの。少しずつ上達するので、気にせず毎日の実践を続けましょう」といったフォローが入るところですが、本書では、失敗こそが悟るための大きなステップだと捉えているので、安心していただいてけっこうです。むしろ、派手に失敗したほうが、気づきが多いかもしれません。
瞑想でみえてくる四つの正体
瞑想があまりうまくいかなかったのであれば、それだけで、自分でも知らなかった「四つの正体」を感覚的に理解できるのではないでしょうか。これを悟り隊では「四(し)正体(しょうたい)」と呼ぶこととします。
四つの正体(四正体)
一、 一から一〇〇まで数えるという簡単そうな行為が、静かに行ってみると意外と難しい。
二、 雑念(思考のタネ)は、浮かばないように気をつけていても、自動的に浮かんできてしまう。
三、 雑念の相手をせず、やり過ごすのは時として困難で、つい考えごとに入り込んでしまう。
四、 考えていると気づくより、考え始める方が常に先である。
まず「一」によって、脳が自分の指令通りに動いてくれないことに、皆さんもはっきりと気づいたのではないでしょうか。脳は私たちが考える「自我」の命令など無視して、好き勝手に行動します。数を数えるという、子供の頃からお手のものだったはずの簡単な行為さえ、声に出したり、テンポをつくったりといった工夫で刺激を強化しないことには、脳は満足に遂行できないのです(目を開けて、皆と一緒になら簡単なんですけどね)。脳はとても退屈に弱く、より刺激の大きいほう(瞑想中なら、過去の出来事か未来の予定のどちらか)へ逃避しようとするため、静かな環境でのコントロールは非常に困難です。
「二」からは、雑念は自分の意図とは関係なく、勝手に現れてくるという現実がみえてきます。前章で示した、「海馬に電極を刺す実験」を思い出してください。何かを思い出して意識にのぼる一・五秒も前に、それに対応する神経細胞が活動を始めるのでしたね。雑念が浮んだことにあなたが気づくのは、脳が思い出すための活動を始めた後なので、あなたのコントロールが及ばなくて当然なのです。浮かんでしまった雑念を、うまくやり過ごせることもありますが、時には失敗し、思考に入り込んでしまいます。それが「三」の状態。
このとき、
「さっきの雑念はやり過ごしたけど、今度のやつは重要だから、しばし思考することにしよう」
という具合に、自分の意志で判断したわけではなかったはずです。
つまり、次々と浮かぶ雑念のうち、どれをやり過ごして、どれに乗っかるかに際し、あなたの「意志」に選択権はないのです。浮かんできた雑念がより深い思考の対象になるかどうかは、もちろんそれがどのくらい重要で、脳にとって刺激的かも関係しますが、たまたま、そのタイミングでの脳のゆらぎや、優位になっているモジュールによっても変わってきます。
さらに、「四」。考えていると気づいたときには、すでに考え始めた後であることに気づきましたか? 気づくことができたのであれば、思考を開始するのは自分の意志によってではないこと、そして、今まで、自分の意志によって考えていると感じていたのは「錯覚」だったのだと、心底納得することができたのではないでしょうか。
「確かに! 真面目に瞑想をするつもりだったのに、なぜ、よりによってあんなことについて考え込んだりしたんだろう!」
と、自分でも不思議に思えるようならバッチリです。
中には、「確かに雑念を選ぶことはできなかったけれど、どれを思考するかについては自分で判断したよ」と主張する人もいるかもしれません。「それは私にとって重要な課題で、とても気になったので、瞑想より優先することにしました」と。
そういう方に、一点、指摘させてください。たった数ページ前に、
「考えごとをしていることに気づいたら、たとえそれが大切な課題であったとしても、一旦は棚上げにして、元の呼吸に戻ってください」
と、しっかり念を押したことはお忘れでしょうか。あなたは、忠告を踏まえて瞑想を開始したはずですから、冷静に考えれば、自らの意志で思考を優先したわけではなさそうです。せっかく一、二章を読み切り、あと一歩で悟りを開けるところまできて、
「ううむ、せっかくの機会なのは承知しているが、悟りは一旦あきらめることにして、今はこの課題について考えることを優先しよう」
と判断することは、普通はありえません。
もし自分で思考を選択したと感じているのなら、それこそが、前章で何度も述べた、「脳のゆらぎによって決まったことを、自由意志で決断したかのように錯覚する」という、脳の巧妙なトリックによるものと思われます。あるいは、作話。考えごとを促したのは脳のゆらぎなのに、意識が届かない部位での出来事だから、自分ではそれに気づくことができないのかもしれません。そのような場合、人は自分が覚えていない記憶を補おうとして、一応は辻褄の合う理由を創作するのでしたね。それでもあなたは、それら知見を無視して、今回は例外なのだと信じますか。
ちなみに、仏教用語として「悟り隊オリジナル」なのは、この四正体だけですので、ぜひ頭の片隅にとどめておいてください。次の次に当たる第Ⅴ章で再登場する予定です。
やはり、あなたはいません
あなたの知られざる四つの正体(四正体)、一、脳がさっぱり指示通りに働いてくれないこと、二、思考のタネは自分で選び取るのではなく、次々と勝手に浮かんでくること、そして、三、実際の思考にうつるかどうかについても、自分には決定権がないだけでなく、四、考えていることに気づくのは「考えるという行為」より常に後であることが、感覚として理解できたでしょうか。
今まであると感じていた、自分の管理者たる自我などというものは、錯覚にすぎないのだと腑落ちしましたか?
体の内側からも、無我がわかりましたか?
であれば、おめでとうございます。悟り隊隊長として、私、内山直は、あなたが悟りを開いたと認可いたします。
なんとなくわかった気がするけど、部分的に違和感が残るという方は、これからすぐでも、あるいは後日でもかまいませんので、ぜひ、もう一度瞑想に挑戦してみてください。さきほど挙げた四正体に意識を向けてみれば、確かに自我がないことが、きっとご理解いただけると思います。
また、瞑想以外にこんなやり方もあります。考えが浮かぶと瞬間的に、それは自分の意志によるものだと信じる習性が私たちにはありますが、それが本当に自由意志なのか、冷静に、そしてしつこく見つめ直してみるのです。あなたが最近、口にした言葉は、絶対に意志から出て来たものばかりですか。「もちろん」と感じているのはわかります。でも、本当にそうか、強く疑ってかかってみてください。そうすると、「今思えば、なんであんな言い方をしたんだろう」という具合に、所属のはっきりしない言葉がみつかってくるものです。不和をもたらしたり、そこまではいかなくても、なんとなく場の雰囲気を悪くしたり、誰かの喜びに水を差すような形になったりする発言もあったでしょうが、それは本当に、あなたの意志で、どうしても言いたくて口にしたセリフでしょうか。
また、今この文章を読みながら、あなたは何かを考えていると思いますが、それも大いに疑ってみてください。その思考は、本当にあなたにとって真実に近い、公正な思考ですか。いつの間にか、どこからともなく浮かんできた、よく出所がわからない内容を自分のものと錯覚し、執着しているようなことはありませんか。しっかり注意を向けた上で検討し直してみれば、違和感が残る部分もあるはずです。
あなたの意志らしきものは、無意識のエリアからいつの間にか現れ、まるであなたの所有物のように振る舞いながら、強力に同化しようとします。しかし、しばらくとどまった後は、また、どこへともなく消えていくため、時間を開けて振り返ると、「なんで私は、あんな考えにとりつかれたりしたんだろう」と首を捻るケースが出てくるわけです。
瞑想のときと同様に、考えが浮かんでは消えてゆくのに気づけば、それが必ずしも自分の所有物ではないことが、少しずつはっきりしてきます。だって、あなたは、いないのですから。
瞑想がうまくいったと感じている人へ
ところで、瞑想後に読む文章の最初で、「ばっちり集中できて、ほとんど雑念が浮かばなかった、という人への説明は最後に」と記しましたね。ここで、これに当てはまる人への説明を附記しておきます(当てはまらない人は、次章へ進んでいただいてけっこうです)。
通常、よほどの達人でない限り、雑念なく数字を一〇〇まで数えるのは不可能です。しかしたまに、自分はできたと主張する人がいるのは確かで、詳しく話しを聞いてみると、多くのケースでは、「ずっと瞑想について考えていたので、何かを考えているのだと気づかなかった」というのが実情のようです。数字を数えながら、「二五までいったな。次は二六だぞ。よーし、順調だ。次も雑念を浮かべずに頑張るぞ。二七。その調子だ、がんばれ!」という具合に、雑念や思考によって刺激を与え続けたため、(皆と一緒に数えているときのように)簡単に一〇〇まで数えられただけなのですが、思考の内容が瞑想に沿ったものであったため、それが思考なのだと自分では気づかなかった、というわけです。
もちろん、瞑想をしているとき以外でも、頭の中は雑念で一杯なのですが、瞑想などを通じて意識を向けない限り、その事実に気づくことはありません。中には、「いつもは雑念など浮かばないのに、なぜか瞑想中は雑念だらけになってしまう」と勘違いし、首を傾げる人もいるくらいです。頭の中で自動反射のように思考が渦を巻いている状態に、常日頃から慣れきっているため、考えていたと気づくことさえできない人も、一定数いるというわけです。
その辺を念頭において再挑戦していただければ、「なるほど、確かに雑念だらけだ」から始まって、四正体に気づけるかもしれませんよ。
───悟り隊・隊長 内山直
※原文はタテ書き
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